足利義政と言うと、銀閣寺を立てた人物として有名ですよね。

それ以外にも東山文化を開花させるなど、芸術的な面が目立っているかもしれません。

その反面、将軍としての活躍を知らなかったりなど、どんな人なのかわからない方も多いようです。

そこで、この記事では、足利義政のプロフィールや年表を使って、その生涯を詳しく解説しました。

記事後半は東山文化についても、お伝えしますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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足利義政どんな人?

まずは足利義政の簡単なプロフィールを紹介します。

名前足利義政(あしかが よしまさ)
出身地京(現在の京都府京都市)
生誕1436年1月20日
死去1490年1月27日
享年55歳(死因は脳溢血と言われる)
時代室町時代中期~戦国時代初期
職業室町幕府第8代将軍

足利義政は室町時代に権力を振るった足利家の生まれで、父親は第6代将軍の足利義教、母親は側室の日野重子です。

義正は義教にとって5人目の子供で、のちに第7代将軍になる足利義勝とは異母兄弟でした。

二人は別々の場所で育ち、結果的に義政は将軍としての後継を外されます。

後継の資格を失った義政は慣例によって、京都の寺院に出家するというルールの下、入寺します。

その一方で、父親が殺害された後に兄の義勝が、9歳という若さで第7代将軍に任命されました。

しかし、将軍に着任してわずか1年足らずで死亡します。

こうして、足利義政は兄に代わる形で、兄より若い8歳で第8代将軍に着任しました。

将軍になった1449年からは、1490年まで長期に渡って将軍を務めます。

義政が本来将軍になる予定はなかったというのは意外な事実ですね。

仮に兄の義勝が長期政権を担っていたら、義政は現在ほど有名になっていないでしょう。


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足利義政の生涯

続いて足利義政の生涯を以下の年表に沿って解説していきます。

出来事
1436京で足利義教の子供として生誕
1449鎌倉幕府第8代将軍に就任
1455日野富子と結婚
1464弟・義視を後継者として育成
1465日野富子との子供・義尚が誕生
1467応仁の乱が勃発
1482銀閣寺の建設を開始
1490脳溢血が原因で死去

では、年表の中でも有名な応仁の乱銀閣設立をメインに、足利義政の生涯を見ていきましょう。

日野富子と結婚して義尚が誕生する

義政が8代将軍になった時期は、まだまだ幼少でしたので、トラブルが発生した時には、その都度各地に配属された守護大名が解決していきます。

そして、20歳になると日野富子を正室に迎えることになります。

そして、結婚してから富子は子どもに恵まれます。

しかし、子供は女子ばかりで男子が生まれてきませんでした。

義政としては後継となる者を育てる必要があるので、男の子を希望していましたが、思い通りにいきません。

そこで義政は1464年に、仏門に入っていた弟の義尋を呼び出し、足利義視と名前を改めて次の将軍として育成し始めます。

後見人には細川勝元を任命しました。

これで義政も安心だという時に、富子が義尚という男の子を出産します。

富子としては次の将軍として義尚を推薦します。

しかし、義政はすでに義視を後継者として育てているので対立が発生しました。

これが11年にも及ぶ応仁の乱の原因です。


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応仁の乱が勃発

義尚を将軍に推薦する富子は、山名宗全を後見人にして、足利義視と対立する準備を整えます。

一方で義政はどちらが将軍にふさわしいとは言いませんでした。

というのも、当時の義政は政治に無関心だったのです。

そのため、応仁の乱は足利義視と日野富子をリーダーとする争いと言えます。

将軍の後継問題で慌ただしい中、各地で守護大名同士の対立も発生しました。

こうして1467年に応仁の乱が起きます。

戦いは激化し、各地で戦火が起こり京都や主な地方は疲弊しました。

戦いの中心であった京都には、たくさんの文化財や仏像がありましたが、この時に破壊されたと言われています。

応仁の乱は日本全国を巻き込んだので、なかなか治まることなく11年にも及びました。

将軍の後見人として就任していた山名宗全と、細川勝元も激しい争いの中で亡くなります。

そんな争いを終わらせたのは将軍の義政です。

なんとここに来て義政は、息子の義尚に将軍の座を譲りました。

こうして、応仁の乱は何とも言えない終わりを迎えます。

義政さえもっと早くに結論を出していたら、こんな長い争いになっていたこともないでしょう。

応仁の乱を見ると、義政はあまり優れた将軍ではなかったのかもしれませんね。


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銀閣寺の設立を開始

応仁の乱がおきている中、義政は銀閣寺の設立を開始します。

なぜ争いが起きている中でそんなことを始めたのかというと、二人の理由がありました。

  • 隠居生活する場所を探していた
  • 足利義満にあこがれていた

室町幕府第3代将軍の義満は非常に優秀で、権力も財力も歴代将軍の中でもトップクラスです。

義政にとって義満は祖父に当たります。

優秀な祖父にあこがれて、義満が建立した金閣寺のマネをして、銀閣寺を建てたと言われています。

その後、出家して仏門に入りました。

しかし、1489年になると義尚が死去します。

その影響で政治に再介入することになりました。

ただ、義政の政権は病気によって長続きせず、1490年に義尚とほぼ同時期に亡くなります。

ちなみに、銀閣寺が完成したのは同じ1490年でした。

ただ、義政が亡くなったのは1月で、銀閣寺が完成したのは2月です。

そのため、義政は銀閣の完成された姿を見られませんでした。

戦いの最中に作った銀閣寺ですが、完成した姿を見られなかったのは残念ですね。

義政にとっても、銀閣寺が唯一の心残りだったでしょう。


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文化(東山文化)

室町時代中期には東山文化が文化が開花しました。

足利義政が築いた東山山荘を中心に、武家や公家などの文化が融合して生まれたものを指します。

義政が計画した銀閣寺は、東山文化を代表する建造物です。

東山文化時代は応仁の乱に生まれましたが、その一方で他種多少な芸術が開花しました。

その才能は将軍から始まりましたが、次第に庶民にまで浸透していきます。

それが今日まで残るさまざまな文化へと発展していきました。

そんな東山文化ですが、特徴的なのが簡素なものに美しさを見出した点です。

例えば東山文化の代表作として、銀閣寺以外にも水墨画茶道などがあります。

水墨画は東山文化前からあったものですが、室町時代の後期に大きく発展しました。

中でも雪舟の水墨画が有名で、現在でも残っています。

この時に描かれた雪舟の代表作四季山水図巻や秋冬山水図、天橋立図は国宝です。

現在となっては日本の伝統文化とされている茶道も、この時代に基礎が作られました。

村田珠光という方が登場し、侘茶が生まれます。

これがのちに茶道の発展へとつながって行きました。

このように東山文化は、現存する日本の伝統文化が多く生まれた時代でもあります。


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足利義正について、プロフィールや年表を元に詳しく解説してきました。

応仁の乱を11年も長引かせ、その間に銀閣寺を立てたことから、政治よりも文化や芸術に興味があったことは確かですね。

将軍としの能力は物足りない感じがしますが、芸術家としては現代にも通じるセンスがあったという点は先進的な感覚の持ち主だったのかもしれません。