天智天皇といえば、どのようなことをした人物かはっきり知らない方も多いですよね。

わたしも、大化の改新に関わった天皇といった位しか知識がありません。

そこで、天智天皇について、プロフィールや年表を使ってわかりやすく解説します。

この記事を読めば、どんなことを成し遂げたのか、その一生がよくわかります。

記事後半は、古墳についても解説していますので、ぜひ最後までお付き合いくださいね。


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天智天皇とは?

まずは天智天皇の簡単なプロフィールを紹介します。

名前天智天皇(てんじてんのう)
出身地不明
生誕626年
死去672年1月7日
享年46歳(病死)
時代飛鳥時代
職業38代天皇

天智天皇は天皇一家の生まれで、父親は34代天皇の舒明天皇、母親は35・37代天皇の斉明天皇です。

天智天皇になる前は葛城という名前でした。

その後、中大兄皇子という名前に変わります。

天智天皇より、中大兄皇子の方が聞きなじみがあるのではないでしょうか。

ちなみに「中大兄」という言葉は2番目の大兄という意味があります。

大兄は大王位継承資格を持っていることを証明するので、中大兄は2番目の大王位継承者という意味です。

そんな中大兄皇子ですが、幼少期の記録は残っていません。

明らかになっているのは、645年に起こった乙巳の変からです。

乙巳の変で名を挙げて、その後の大化の改新では大きな改革を行いました。

その後、天智天皇になって、さまざまな改革を行っていきます。

中大兄皇子は有名ですが、天智天皇と同一人物だと知らない人も意外と多そうですね。

知らなかった人はこの機会に覚えておきましょう。

では、中大兄皇子(天智天皇)がどのような人生を送っていくのか詳しく見ていきましょう。


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天智天皇の生涯

天智天皇の生涯を分かりやすく紹介するために、まずはざっとした年表を紹介します。

出来事
626生誕
645乙巳の変が勃発
645大化の改新を実行
663白村江の戦いが勃発
668中大兄皇子が天皇に就任
671後継者問題を抱える
672病気で死去

では、乙巳の変から順番に見ていきましょう。

乙巳の変で蘇我氏を滅ぼす

645年に中大兄皇子は、中臣鎌足と手を組んで、蘇我入鹿を暗殺しようと計画を立てます。

そして蘇我入鹿を暗殺した後は、父親に当たる蘇我蝦夷も翌日に暗殺しました。

この蘇我氏を暗殺した事件が、いわゆる乙巳の変です。

乙巳の変の背景

聖徳太子の死後、勢力を拡大した蘇我入鹿(豪族)を快く思わなかった、天皇一派が起こしたのがこの戦いの背景です。

乙巳の変により孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子になって天皇をサポートします。

その一方で、大化の改新でさまざまな改革を行っていきました。

大化の改新

大化の改新とは、乙巳の変から始まった天皇中心の政治体制を確立するために行った一連の改革のことを言います。

その後、孝徳天皇が崩御し、斉明天皇が再び天皇になります。

しかし、663年に行われた白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で日本が敗戦し、その影響で斉明天皇も崩御しました。

白村江の戦い

朝鮮半島の白村江を舞台に、日本軍と朝鮮の百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いのことを言います。

天皇がいなくなり、中大兄皇子はしばらく皇太子のままでしたが、668年に天智天皇になります。


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白村江の戦いの戦後処理を開始

日本のリーダーになった天智天皇は、白村江の戦いの戦後処理で忙しくなります。

具体的には以下のことを行いました。

  • 唐との和平交渉
  • 万が一に備えて唐と戦う準備
  • 軍役を課された農民たちの救済措置

天皇になった後に、こういった問題点に対応する必要がありました。

まずは唐との和平交渉に臨みます。

結果的に、和平交渉に成功して、唐との外交関係は回復しました。

これにより、万が一の際に行った唐との争い準備も無駄に終わることになりますが、

その一方で農民たちの待遇改善にも取り組みます。

このように天皇になった後、問題を速やかに解決して見せます。

この一連の出来事を見るだけで、天智天皇が頭脳明晰だと分かりますね。


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次期天皇を決める

白村江の戦いを終えた天智天皇は跡継ぎのことを考えます。

最初は弟である大海人皇子を次期天皇にしようと、皇太弟という地位を与えました。

大海人皇子は白村江の戦いの戦後処理にも尽力した人物で、周囲の評判も良かったのです。

そういった理由で、次期天皇は大海人皇子とまで言われていました。

しかし、大海人皇子は671年になると皇太弟を辞退させられることになります。

そこで次期天皇として選ばれたのが、天智天皇の息子である大友皇子です。

天智天皇は大友皇子を次期天皇にするために、史上初の太政大臣にしました。

太政大臣とは、最有力の皇位継承者で、天皇の共同統治者・政務代行者としての役割を担っています。


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大海人皇子との関係が悪化

次期天皇問題が丸く収まったように見えますが、突如として天皇になる権利を失った大海人皇子は納得いきません。

そのうえ、大海人皇子は天智天皇から見ると、息子の地位を脅かす存在です。

こうして兄弟の仲は悪くなりました。

その後、争いになるかと思いきや、671年に天智天皇が病気を患います。

そのまま倒れてしまい、なかなか回復しません。

結局回復することなく、672年に近江神宮で亡くなったと言われています。

天智天皇は亡くなりましたが、後継者問題は解決していません。

結果的に、大海人皇子と大友皇子は対立、争いに発展します

これが壬申の乱です。

結果だけお伝えすると、壬申の乱で大友皇子が敗北して、大海人皇子が天皇になりました。

天智天皇は優秀な政治力を持っていますが、後継者問題については大きな置き土産を置いていきましたね。

やはり親族がかかわってくると、いくら天智天皇であってもすんなりと解決するのは難しかったのでしょうか。


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天智天皇と天武天皇の関係

天智天皇と天武天皇は兄弟です。

というのも、天武天皇は大海人皇子のことを指します。

天智天皇の後継者問題で、壬申の乱が勃発しましたが、その勝者は大海人皇子です。

その結果、大海人皇子が新たな天皇になって、天武天皇に名前を変更しました。

大海人皇子が天武天皇であることも、歴史を知る上で重要なことです。

知らなかった人は、天智天皇の関係性と合わせて覚えておきましょう。

ちなみに、天武天皇は第40代天皇で、天智天皇より長い約13年間在位しました。


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天智天皇陵

天智天皇は偉大な功績をたたえられて、天皇陵が存在します。

天智天皇陵

  • 名称…御廟野古墳(ごひょうのこふん)/(天智天皇山科陵)
  • 所在地… 京都府京都市山科区御陵上御廟野町
  • 電話番号…075-541-2331
  • 休館日…特になし
  • 入館料… 無料

こちらの場所に、ほぼ間違いなく天智天皇が祀られていると言われています。

天皇の埋葬がはっきりしているのは非常にレアケースで、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけです。

これだけでかなり貴重であることが分かるでしょう。

古墳の大きさは上円下方墳とする場合、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルです。

古墳の周囲は木に囲まれていて、神秘的な雰囲気が漂っています。

天智天皇陵を訪れると不思議な感覚を体験できるので、興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。


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天智天皇の生涯について、プロフィールや年表を元に詳しく解説してきました。

乙巳の変から歴史の表舞台に登場してきましたが、大化の改新に大きく貢献し、白村江の戦いの戦後処理を速やかに実施したことは、優れた政治力を持っていたと言えそうですね。