吉備真備という人物は、第一次遣唐使の使者として有名ですよね。

しかし、その生い立ちや遣唐使以外での活躍については、あまり知られていないようです。

そこで、吉備真備のプロフィールや年表を元にわかりやすくその生涯を解説します。

記事後半は、吉備真備の公園についても触れていますので、ぜひ最後までお付き合いくださいね。


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吉備真備とは

まずは吉備真備のプロフィールを紹介します。

名前吉備真備(きびのまきび)
出身地岡山県 下道郡
生誕695年
死去775年11月3日
享年81歳
時代奈良時代
職業公卿、学者、政治家

吉備真備は庶民の生まれでありながら、天才的な頭脳を持っていたことで有名な人物です。

吉備真備は下道圀勝(しもつみちのくにかつ)の子供として誕生しました。

下道家は決して身分の高い家柄ではありません。

そのうえ当時は、位の高い役職に就くには身分が最重要でした。

位の低い家に生まれた吉備真備が、出世する可能性はほぼゼロです。

しかし、吉備真備は幼少期からずば抜けて頭の良い青年でした。

まさに「一を聞いて十を知る」といった感じで、どんどん学んでいきます。

あまりの優秀さから、現代で言うところの大学にあたる学校に早くから入学しました。

学校に入学してからも、吉備真備の天才性は衰えることがありません。

卒業するころには、身分が低いにも関わらず官位を得ていました。

さらに、唐への留学生として2回も選出されるなど、官位を得てからも勢いが収まることはありません。

このように吉備真備は、天才と言う言葉すら生温いくらいの鬼才でした。

当時の雰囲気は分かりませんが、身分が低いのに出世していくのは、すごいことだと分かります。

現代で言うと、一般の生まれから総理大臣になるくらいの偉業かもしれませんね。


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吉備真備の生涯

続いて、吉備真備がどんな生涯を歩んできたのか見るために、彼の生涯を表す年表を紹介します。

出来事
695下道圀勝の子供として誕生
717阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐に向かう
738橘諸兄政権の下でブレインとして貢献
741東宮学士に着任
752再度唐に向かう
754唐から帰国し九州に下る
749藤原仲麻呂の乱が勃発
77510月2日に死去

では、年表に沿って遣唐使派遣から紹介していきます。

第一次遣唐使派遣

吉備真備はその頭脳を買われて、717年に阿倍仲麻呂や玄昉(げんぼう)たちと唐へと留学します。

唐への留学は18年にも及びました。

その間、吉備真備はさまざまなことを吸収して、儒学や兵学、音楽など幅広く知識を吸収します。

その学ぶ姿勢が素晴らしく、勉強する能力も高いので、吉備真備は唐でも知識人として有名になりました。

遣唐使には吉備真備以外にさまざまな人が選ばれましたが、その中で唐で有名になったのは吉備真備と阿倍仲麻呂だけだと言われています。

そして18年後に吉備真備は日本へと帰りました。

その際、中国で学んだことを持ち帰ります。


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橘政権に大きく貢献

帰国した吉備真備はその成果を買われて、739年に国政を担当していた橘諸兄政権のブレインとして任命されます。

この時、第一次遣唐使派遣で一緒だった玄昉も抜擢されていました。

玄昉もまた優秀な人物で、護国仏教の確立に大きく貢献しています。

さらに、聖武天皇の母親が患っている心の病を一瞬で直したという逸話もあるほどです。

そんな天才的な頭脳を持つ二人の下、橘政権は順調に進んでいました。

しかし、その活躍に反感を持っていたのが藤原広嗣です。

藤原広嗣の乱が勃発

藤原広嗣は藤原氏という名一族に生まれながら、左遷されるなど不遇の生活を送っていました。

その一方で、身分の低い吉備真備や玄昉が出世していることが、どうしても我慢できません。

そこで二人を除外しようと争いを起こしますが、あっという間に押さえられて敗死します。

嫉妬心を持つことも出世には大切ですが、争いを起こしたのは良くなかったですね。

ただ、相手を殺すことでしか出世できないほど、吉備真備や玄昉が優秀だったとも言えます。


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第二次遣唐使派遣

藤原広嗣の乱を終えた後に、吉備真備は皇太子付きの教育係である東宮学士に任命されます。

順調に出世街道を歩んでいた吉備真備ですが、藤原仲麻呂の台頭によって東宮学士の任を解かれて、そのまま左遷されました。

左遷後は遣唐副使として、二度目の唐に向かいます。

唐から帰ってきた後は大宰大弐に任命されて、そのまま九州に下りました。

九州では当時日本との関係が悪くなっていた新羅への戦闘準備を進めます。

その際に、唐で学んだ兵学を実践して、新羅討伐策へ大きく貢献しました。

その後、功績が認められ寺院を造営するために設置された造東大寺長官へと任命されます。

こうして無事に帰京を果たしました。


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藤原仲麻呂の乱が勃発

吉備真備が帰京したと同時に、藤原仲麻呂の乱が勃発します。

吉備真備はこの争いで討伐軍を結成し、争いの鎮圧に大きく貢献しました。

乱は無事に鎮圧し、その功績を認められた吉備真備は右大臣に任命されます。

右大臣に任命された後も、さまざまな政策に貢献しました。

しかし、当時70歳を超えていたので、いくら天才でも年には勝てません。

そのため、年齢を理由に辞職を願い出ました。

そして775年に81歳で死去します。

吉備真備の生涯は出世したり、左遷されたりする波乱万丈でしたが、やはり能力が優れていたのは間違いありません。

一度左遷されたのに、右大臣に任命されたのはすごいです。

さらに、70歳を超えても重宝されていたのを見ると、その優秀さははかり知れません。


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子孫

吉備真備の子孫には、安倍晴明(あべのせいめい)がいると言われています。

安倍晴明といえば、平安時代の陰陽師として有名です。

フィクションの世界でも登場することが多いので、一度くらい聞いたことがあるでしょう。

そんな有名な安倍晴明ですが、吉備真備の子孫と阿倍仲麻呂の子孫が結婚して生まれてきたと言われています。

ただ、これは伝承として言われているだけなので、本当に吉備真備の子孫が安倍晴明なのかは分かりません。

しかし、吉備真備と阿倍仲麻呂は、第一回の遣唐使派遣の際に同行していました。

その時に知り合って、子孫同士が結ばれた可能性も捨てきれません。

また、吉備真備は当時陰陽師でもありました。

こういった理由から吉備真備と安倍晴明が、まったくの無関係と言い切るのは難しいでしょう。


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公園

吉備真備の偉大な功績を称えて、像が建てられた吉備真備公園というものが現在でもあります。

吉備真備公園

  • 所在地… 岡山県小田郡矢掛町東三成3872-2
  • 電話番号…0866-83-1265
  • 休館日…年中無休
  • 入館料… 無料
  • 開館時間…9:00~16:00

吉備真備は平成19年に「日本の歴史公園100選」に選ばれた名誉ある公園です。

吉備真備の勇ましい様子が銅像に象られています。

また、この地は吉備真備が最初に囲碁と伝えたことを記念した「囲碁発祥の地」記念碑もあります。

吉備真備に興味がある方は、現地に訪れてみるのも良いでしょう。


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吉備真備の生涯をプロフィールと年表を元に解説してきました。

低い身分でありながら右大臣にまで上り詰めるのは、まさにサクセスストーリーかもしれませんね。

しかし、途中で左遷されることがあったりと、決して順調な人生でもなく、逆行にも負けない精神の持ち主だったことも見逃せませんね。