天武天皇と言えば、壬申の乱で勝利した天皇として有名ですよね。

しかし、その戦いの後も、政治的にとても重要な役割を果たしていることを知っている方は少ないかもしれません。

そこで、天武天皇の生涯をプロフィールや年表を使って、詳しく解説いたします。

記事後半は、妻の持統天皇についてもご紹介していますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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天武天皇とは

まずは天武天皇の簡単なプロフィールを紹介します。

名前天武天皇(てんむ てんのう)
出身地飛鳥(現在の奈良県高市郡)
生誕不明
死去686年
享年不明(病死)
時代飛鳥時代
職業40代天皇

このように天武天皇は不明なところが多いです。

出生した年齢が不明なので、死去した年齢も分かりません。

ただ、死去した年は686年です。

死去した年代が判明しているので、生まれた年もある程度推測できます。

まず、飛鳥時代の平均寿命は30歳前後です。

仮に天武天皇が30歳で亡くなったとしたら、生まれたのは636年になります。

多少前後していると思うので、おそらく生まれた年代は630~640年でしょう。

そんな不明なところが多い天武天皇ですが、実は天智天皇と深い関係があります。

日本書紀によると二人は同じ父母から誕生した兄弟です。

天智天皇が兄、天武天皇が弟にあたります。

幼い時は当然ながら天皇ではなかったので、幼少期は天智天皇が葛城(かつらぎ)皇子、天武天皇が大海人(おおあまの)皇子と呼ばれていました。

二人は兄弟でありながら仲が悪く、天武天皇が天智天皇の息子を殺そうとしていたほどです。

昔には兄弟同士の争いがよくありましたが、悲しいことですね。

兄弟で仲良く世の中を収めていたら、もっと違った結果になったのかもしれません。


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天武天皇の生涯

続いて天武天皇の生涯を年表に沿って分かりやすく解説していきます。

出来事
645己巳の変が発生、大化の改新
657持統天皇と結婚
671吉野に逃げる
672壬申の乱が発生
673天武天皇に即位
684八色の姓を制定
686病院が原因で死去

では、それぞれの出来事から最後の死去するまでの流れを見ていきましょう。

大化の改新で兄と共闘する

ご紹介したように、天武天皇の出生は明らかになっていません。

しかし、舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)天皇の子供として誕生したと言われています。

出生から順調に成長しましたが、その一方で645年に兄である中大兄皇子(天智天皇)が己巳(いっし)の変を起こしました。

己巳の変には当時大海人皇子だった天武天皇も参加します。

その結果、天皇を中心とした律令国家を目指すようになりました。

この一連の流れが有名な大化の改新です。

そして668年に中大兄皇子は天智天皇へとなります。

一方で大海人皇子は、兄が天皇にあることを支えたので、次の天皇になれるはずでした。

しかし、天智天皇は息子の大友皇子を自分の後継にしようと考えています。

その結果、天智天皇と大海人皇子の仲が悪くなったということですね。

大海人皇子は自らが天皇になるために、大友皇子を殺害しようとしますが失敗に終わります。

そのうえ、その罪によって命を狙われるようになりました。

自らの身を守るために、大海人皇子は吉野へと逃げました。

そして671年に天智天皇は病気が重くなって、大友皇子が後を継いで39代天皇になります。

ただ、実際に天皇になったのかどうかは明確にされていません。

というのも、天皇になった直後に壬申の乱が発生したからです。


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壬申の乱が発生

天智天皇の死を知った大海人皇子は、吉野を出立しました。

大友皇子のいるところに向かう際中、大海人皇子は美濃や伊勢、伊賀、熊野などを訪れます。

大海人皇子の見事な説得もあり、多くの豪族を仲間に従えることに成功しました。

強力な戦力を備えた大海人皇子は、近江朝廷にいる大友皇子へと向かいます。

一方で大友皇子は来る争いに向けて戦力を集めようとしますが、東国の使者は大海人皇子によって阻まれました。

近い諸国からしか兵力を集められなかったので、その時点で大きく不利な状態に陥ります。

その後、大友皇子は近江へと入りました。

大海人皇子は、勢いそのままに滋賀県で発生した瀬田橋の戦いに余裕で勝利します。

追い詰められた大友皇子は自決して、壬申の乱は幕を閉じました。

そして、673年に大海人皇子は天武天皇になります。

大々的な兄弟ケンカでしたが、最後は割とあっけない終わり方をしましたね。

戦況を有利に進められたのも、大海人皇子が仲間を増やしていったからでしょう。

この事実から、大海人皇子は相当リーダーシップに優れたいたと分かりますね。


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天武天皇が死ぬまで

天武天皇になった大海人皇子は、兄・天智天皇の跡を引き継ぎます。

戦いの後処理を終えた後は、天智天皇が行おうとしていた以下のことを行いました。

  • 天皇の実権を強化する
  • 天皇自ら政治の指揮を執る
  • 新しい身分制度「八色の姓(やくさのかばね)」を作る

上記の政策と共に、藤原京の建設や古事記・日本書紀の編集を行っていきます。

順調に国を変えていった天武天皇ですが、686年に病気を患ってしまいました。

その後、回復することもなく政治を皇后と皇太子に委ねます。

そして、回復することなく686年に死去しました。

兄弟の仲が悪いと言われていますが、兄の政策を継いでいるので、政治的な志は一致していたのかもしれません。

目指すものは一緒だったので、協力していたらさらに日本は進んだ国家になっていたでしょう。


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持統天皇(天武天皇の妃)との関係

持統天皇は天武天皇の跡を継いだ女性で、天武天皇の妻でもあります。

持統天皇は天皇になる前は、鸕野讚良(うののさらら、もしくは、うののささら)という名前でした。

鸕野讚良は天智天皇の娘なので、叔父と姪で結婚したことになります。

そんな持統天皇が結婚したのは13歳です。

しかし当時、天武天皇には多くの妻や愛人がいたので、鸕野讚良はその中の一人にすぎませんでした。

二人が特別な関係になったのは、天武天皇が吉野に下った時です。

天武天皇は天智天皇の後継争いで命を狙われたので、吉野へと一時的に逃げました。

そんな天武天皇に付いてきたのは鸕野讚良だけです。

そこから天武天皇は、鸕野讚良を特別な相手だと認識しました。

天武天皇が政治活動をしている間も、親身になって協力してくれます。

ただ、天武天皇は686年で亡くなりました。

その後を継いだのが鸕野讚良で、第41代天皇になって、名前が持統天皇になります。

女性が天皇になるのは珍しく、史上三人目の女性天皇です。

持統天皇は天武天皇の跡を引き継いで、藤原京遷都と律令国家を完成させました。

そのため、藤原京遷都と律令国家に関しては、夫婦で作り上げた愛の結晶と言えます。

天武天皇のやり残したことを完遂させた持統天皇は、自らの政治を行っていきました。

そして、天武天皇が亡くなった約20年後の703年に持統天皇も亡くなります。


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天武天皇の生涯をプロフィールや年表を使って解説してきました。

兄の息子を自害に追い込むなど、残酷な面も見えますが、律令国家を作ろうとした政治姿勢は兄と同様に通じるものがあったに違いありませんね。