源平合戦と言うと、源氏と平氏が争った戦いで有名ですよね。

しかし、一言で源平合戦と言っても、いくつかの争いをまとめて表しています。

それぞれの戦いがなぜ起こって、どのような流れで平氏が滅亡したのか詳しく知っている方は少ないようです。

そこで、この記事では、源平合戦の流れを年表を使ってわかりやすく解説しました。

記事後半は、「源平合戦図屏風」についてもご紹介していますので、ぜひ最後までお付き合いくださいね。


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源平合戦の原因

源平合戦は1177年から1185年に起きた平氏と源氏の戦いのことですが、この戦いは以下の二つの争いが原因です。

  • 保元の乱
  • 平治の乱

この二つの乱がきっかけで源平合戦へと発展していきます。

【保元の乱】

保元(ほうげん)の乱とは、1156年に起きた崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承をめぐる争いのことです。

保元の乱には源氏と平氏も参戦していました。

この戦いがのちの源平合戦に至ります。

しかし、保元の乱の時は、源平合戦で争うことになる源義朝と平清盛は味方同士でした。

二人は後白河天皇の下に就いて、崇徳上皇と戦います。

その結果は後白河天皇の勝利です。

後白河天皇が皇位を継承して、武士が力を持つ時代へと移ります。

これがのちに、武士が政権を掌握する武家政権へと発展していくのです。

【平治の乱】

続いて1159年に源義朝と平清盛が政権を争う「平治の乱」が勃発します。

なぜ保元の乱で手を組んだ二人が対立したのかは諸説ありますが、待遇の差というのが有力です。

後白河上皇の側近・信西は平清盛により厚い恩賞を与えました。

この一件によって信西を敵とみなした源義朝が、藤原信頼と手を組んで信西を襲います。

その後、天皇と上皇を幽閉して実権を握りました。

その騒ぎを聞きつけて、任務に赴いていた平清盛が帰ってきます。

結果的に平清盛が源義朝と藤原信頼に勝って、天皇と上皇を開放することに成功しました。

平治の乱で源氏は一時的に後退しますが、それと同時に平氏に反発する勢力も現れます。

1180年には以仁王(後白河上皇の息子)が平家の討伐を命じて、源平合戦が始まるのです。

源平合戦が起きた理由は諸説ありますが、後白河上皇の側近・信西が大きく関係していますね。

信西が待遇に差をつけなければ、源氏と平氏は対立していなかったかもしれません。


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源平合戦を解説

続いて源平合戦を紹介していきたいと思いますが、まずは簡単な流れを年表で紹介します。

出来事
1180以仁王の命令によって平氏・安徳天皇の討伐が開始
1180源頼朝が戦いを仕掛ける
1180石橋山の戦いで源氏が敗北
1181平清盛が病死
1183倶利伽羅峠の戦いで平氏が敗北
1184源義仲と頼朝が対立(宇治川の戦い)
1185壇ノ浦の戦いで源氏が勝利して平氏が滅ぶ

では、年表に沿って分かりやすく解説していきます。

以仁王が平氏討伐を命令

後白河上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、安徳天皇即位で皇位継承の権利を奪われました。

そこで平氏に擁立されている安徳天皇を討伐する決意をします。

その後、源氏やさまざまな反平氏勢力へ「令旨」という命令書を出しました。

しかし計画は半ばでバレてしまい、以仁王は討ち取られます。

これで戦いが終わると思いきや、以仁王が出した令旨によって反平氏勢力が勢いを増していました。

こうして源平合戦(治承・寿永の乱とも呼ぶ)が勃発します。


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源頼朝が蜂起

以仁王の令旨を受け取った一人の源頼朝は平氏に恨みを持っていました。

というのも、源頼朝は平治の乱で負けた源義朝の子供です。

復讐という形で、源頼朝は平氏との戦いに挑みます。

源頼朝は平氏の支配を受けて、不満が募っていた豪族たちを仲間に引き入れました。

徐々に仲間が集まっていきましたが、集まりきる前に平氏に夜戦を仕掛けます。

しかし、兵力の差で最初の争いは、源頼朝の惨敗に終わりました。

これが石橋山の戦いです。

富士川の戦いが勃発

争いに敗北した源頼朝の下に、強力な豪族である三浦軍が合流します。

一方で平氏は平維盛を大将として討伐軍を結成して、東へと進みます。

平氏は兵力を集めながら目的地に向かいますが、飢えや疲れが原因で仲間の士気は低下していました。

そして、いよいよ平氏と源氏は富士川をはさんで対立します。

しかし、この戦いは源氏が戦わずにして勝つというあっさりとした結末を迎えます。

長旅の影響で極限状態にあった平氏が攻撃を仕掛ける際に、突然水鳥の群れが一斉に飛び立つのです。

夜であったことも関係して、平氏はその音にビビってしまいます。

その結果、大混乱を起こして撤退をしました。

一方で戦いに勝利した源氏は弟の義経を仲間に引き連れて、一時鎌倉で休息を取ります。

あっけない結果になりましたが、やはり疲れたまま戦いに挑むのは無謀ですね。

そのうえ、兵力も源氏の方が多かったので、戦ったところで結果は変わらなかったかもしれませんね。

むしろ逃げたことで無駄死にせずに済んだので、結果的には良かったとも言えますね。


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倶利伽羅峠の戦いが勃発

戦いで負けた平氏に、さらなる不幸が訪れます。

なんと平氏のリーダーであった平清盛が病気で亡くなるのです。

清盛の跡は三男の宗盛が引き継ぎましたが、その影響は計り知れません。

そのうえ、降水量が激減して、大飢饉が発生するなど最悪な状態です。

1183年に入ると大飢饉は落ち着き、平維盛をリーダーとする軍は北陸に進行します。

一方で源氏は、義仲をリーダーとして北陸道で勢力を伸ばしていました。

両軍は激突して、舞台は倶利伽羅山へと移ります。

激しい戦いの末、義仲の勝利に終わりました。

勝利した源義仲は勢いそのままに、平氏を追って京都へ侵攻します。

一方で平氏は安徳天皇と都落ちしました。


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源義仲の謀反が発生

都入りした源義仲は後白河上皇に不信感を抱いて命令に背きます。

その結果、頼朝は後白河上皇から義仲の討伐命令を受けました。

こうして源軍同士での戦いが勃発します(宇治川の戦い)。

結果は頼朝軍の勝利に終わって、そのまま都へと向かいました。

一方で勢力を立て直した平氏は、摂津国福原近辺まで進出します。

その後、源軍と戦いを起こしました(一ノ谷の戦い)。

しかしこの戦いは、源氏の勝利に終わります。

その後も屋島の戦いなどが起きますが、平氏は少しずつ西へと追い詰められていきました。

壇ノ浦の戦い

源平合戦最後の舞台は壇ノ浦です。

壇ノ浦で海上戦を行い、一時は戦況を盛り返します。

しかし、少しずつ源氏に盛り返されて、最終的な結果は圧倒的に源氏が勝利しました。

その戦況を見た平氏は海へと身投げして自殺を図ります。

こうして源平合戦は源軍の勝利に終わりました。

長い戦いでしたが、基本的には源氏が有利な状況で進んでいきましたね。

源氏を率いた頼朝と義経が、いかに優秀であったのかが分かります。


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源平合戦の場所

先ほど紹介した、源平合戦で争いが勃発した地名の場所はこちらです。

源平合戦の場所

  • 石橋山…神奈川県 箱根町
  • 富士川…静岡県 富士宮市 富士山
  • 倶利伽羅峠…富山県小矢部市松永
  • 宇治川…京都府 宇治市
  • 一ノ谷…摂津国福原(現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部あたり)
  • 屋島…讃岐国屋島(現在の香川県高松市)
  • 壇ノ浦…山口県下関市みもすそ川町

源平合戦は東から西へと舞台が移っていくのが特徴です。

戦いの名前と一緒に、争いが起きた場所まで覚えておくと、源平合戦の流れを理解しやすくなります。


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源平合戦図屏風

源平合戦図屏風とは、一の谷の戦い・屋島の戦いを描いた屏風です。

屏風には平家物語で語られている伝記やエピソードが盛り込まれています。

例えば源義経の坂落としや、平敦盛の討死などの有名なエピソードが、各所に散りばめられているのが特徴です。

また、人が細かく描写されていて、当時の雰囲気が伝わってきます。

その素晴らしいクオリティーから、文化遺産に認定されているほどです。

映像は文化遺産オンライン公式サイトから眺められます。

源平合戦に興味のある方は、一度見ておくと良いでしょう。


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源平合戦が起こった原因や、決着がつくまでの争いを年表を使ってご紹介してきました。

元々、仲がよかった源氏と平氏だったはずなのに、待遇の差から始まった戦が、紆余曲折を得て平氏が滅亡してしまうのは歴史を感じずにはいられませんね。

歴史に「もしも」ということはありませんが、「平治の乱」で平氏が源氏を滅ぼしていれば、と考えると想像が膨らんでしまいます。



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