壇ノ浦の戦いは、歴史の教科書で必ず出てきますよね。
平家と源氏の戦いということは、なんとなくわかっているかもしれませんが、
どういった背景で、どこの場所で起こった戦いか、といったことまで知っている方は少ないようです。
そこで、この記事では、戦場となった場所や、戦いの背景、登場人物までわかりやすく解説いたします。
記事後半は、壇ノ浦の戦いで欠かせない三種の神器の話も記載していますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。
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壇ノ浦の戦い登場人物
壇ノ浦の戦いの主な登場人物は以下の通りです。
- 源頼朝
- 源義経
- 平清盛
- 平知盛
- 平宗盛
- 安徳天皇
他にも登場人物がいますが、基本はこの6人がメインです。
【源頼朝】
源頼朝は鎌倉幕府を開いたことで有名なので、知っている人も多いでしょう。
権力も実力も持っていた源頼朝は壇ノ浦の戦いで、源氏を率いていました。
大きな功績を残したので、戦いの一番の功労者と言えます。
【源義経】
そんな頼朝と共に戦ったのが義経です。
義経は頼朝の異母兄で、戦いではヒーロー的な活躍を見せます。
【平清盛】
一方で、平氏を率いていたのが清盛です。
平清盛は大きな功績を残して太政大臣になるなど、優秀な人物でした。
しかし、優秀すぎるあまり朝廷から追放されて、源氏と戦うことになります。
【知盛と宗盛】
清盛は源平合戦の途中で病死し、清盛の後を継いだのが知盛と宗盛です。
宗盛は清盛の三男、知盛は四男で、劣勢にあった自陣を率いました。
その後戦況を盛り返せず、二人とも壇ノ浦の戦いで亡くなります。
【安徳天皇】
そして、最後の主要人物である安徳天皇は平氏が擁立していた天皇です。
安徳天皇が三種の神器の一つ「天叢雲剣」を持ち逃げしました。
そのうえ、海に天叢雲剣ごと身投げしたので、現在も天叢雲剣は行方知れずです。
主な登場人物が源氏と平氏ばかりで、少しややこしいですね。
誰が何をしたのか正確に把握しておかないと、こんがらがりそうです。
続いてその点も踏まえて、壇ノ浦の戦いの流れを見ていきましょう。
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壇ノ浦の戦い解説
壇ノ浦の戦いについて、以下のポイントで解説していきます。
- 戦いの原因
- 戦いの流れ
- 源義経の「八艘飛び」
では、それぞれのポイントを順番に見ていきましょう。
戦いの原因
壇ノ浦の戦いは、勢いが増した平氏のを倒すために源氏が仕掛けました。
平安時代末期になると、源氏や平氏などの武家が勢力を増します。
中でも平清盛の活躍は目を見張るものがありました。
まずは「保元の乱・平治の乱」で勝利して、力をさらに増大させます。
その後、朝廷との血縁関係を作って、今まで途絶えていた中国(当時は宋)との交易を復活させました。
偉大な功績を残した平清盛は、1167年に太政大臣へに就きます。
太政大臣とは、朝廷の最高職のことです。
こうしてさらに力を付けた平清盛ですが、それを見た当時の上皇・後白河法皇は平清盛を追放します。
さらには源頼朝を筆頭に源氏へ、平氏を討伐するように命令を下しました。
このように源平合戦(治承・寿永の乱とも呼ぶ)が始まります。
最初は平氏が優勢でしたが、徐々に源氏に押され始めて1180年の「富士川の戦い」で劣勢に立たされました。
そのうえ、1181年になると平清盛が病死します。
平清盛が死去した後は、清盛の三男である平宗盛がリーダーになりますが、1183年の「倶利伽羅峠の戦い」で、源義仲に敗れました。
敗退を続けた平氏は、安徳天皇とともに都落ちします。
それでも敗退が止まらず、舞台は壇ノ浦にまで至りました。
勢いがあった平氏が、負け続けるというは意外ですね。
それだけ源氏の力が上回っていたということでしょうか。
以上が壇ノ浦の戦いが起こった原因です。この戦いが起こるまでには、いろいろな衝突があったことがわかりますね。
壇ノ浦の戦いを含めた、これら一連の戦いのことを源平合戦と言います。
では、次章から壇ノ浦の戦いを詳しく見ていきましょう。
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戦いの流れ
壇ノ浦の戦いは平氏が盛り返します。
というのも、戦いの舞台は海上でした。
平氏は海上戦が得意で、逆に源氏は海上戦に慣れていません。
そのため、平氏は地の利を生かして戦況を逆転させます。
一方で源氏は、平氏の巧みな攻撃を受けてピンチに陥りますが、それでもひたすら耐え続けます。
耐え続けた結果、戦況が徐々に変化してきました。
長い時間が経過したことで潮の流れが変わり、平氏にとって向かい潮という不利な潮の流れになったのです。
この流れに乗った源義経は、一気に平氏を追い詰めていきました。
のちに、この潮の流れが変わったことで、壇ノ浦の戦いの流れも変わったと言われるようになります。
潮の流れを味方につけた源義経は、当時は卑怯な戦法と言われていた舟の漕ぎ手を狙います。
「まずは漕ぎ手を射よ」と隊に命令を出したのは有名ですね。
漕ぎ手がいなくなると、当然船を操れなくなるので、一気に戦況は傾きました。
平氏からすると無作法に見えますが、源義経とは育った環境が異なります。
戦の中で舟の漕ぎ手を狙うのは貴族社会では、マナー違反です。
一方で源義経育った奥州では、そのようなマナーはありません。
このギャップが生まれたことで、平氏は戦況を立て直せずに、そのまま舟の戦いは源氏の勝利で終わりを迎えます。
一方で敗北を悟った平氏は次々と船から海へと身を投げて自殺を図りました。
平氏が擁護していた安徳天皇もこの時に、三種の神器の一つ「天叢雲剣」を持って身投げします。
平宗盛を含む一部の生き残った平氏も処刑されて、壇ノ浦の戦いの終わりと共に平氏は滅亡しました。
平氏と源氏で戦いのマナーが違うのは面白いところですね。
相手がいきなりルールを冒して攻撃してきたら、どうしようもありません。
もし同じルールで戦っていたら、結果はもう少し変わっていたでしょう。
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源義経の「八艘飛び」
壇ノ浦の戦いについては当時の資料が少なかったので、憶測や伝承が飛び交っています。
その中でも有名なので源義経の「八艘(はっそう)飛び」です。
八艘飛びとは、源義経と平教経が海上で対立した時の話になります。
教経は戦いの実力者で、義経は教経の攻撃を船上で避け続けました。
その際に船から船へと飛び移っていて、その移動した距離が八艘分もあったと言われています。
義経が恐れるほどの強さを持っていた平教経は、壇ノ浦の戦い前に勃発した一ノ谷の戦いですでに亡くなっていたとされています。
そのため、源義経の「八艘飛び」は本当の話かどうかは定かではありません。
このように壇ノ浦の戦いは当時の記録が残っていないので、さまざまな伝承があります。
こういった、解明していないことを推測するのも歴史の醍醐味ですよね。
興味がある方は、壇ノ浦の戦いの伝承を詳しく調べるのも良いでしょう。
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壇ノ浦の戦いが起こった場所
壇ノ浦の戦いが起こった場所は、現在の地名で言うと山形県下関市にある関門海峡です。
関門海峡は本州と九州を分ける海峡のことを指します。
現在でも壇ノ浦の戦いの古戦場として、山口県下関市にある「みもすそ川」に石碑が建てられています。
さらに、みもすそ川公園内には壇ノ浦の戦いで名を挙げた源義経と、平知盛像が建てられました。
源義経像は躍動感を感じさせる形で、平知盛像は威圧感を感じさせます。
ちなみに夜になると、光の橋となった関門海峡をバックに明るく照らし出される仕組みです。
昼とはまた違った空気感なので、朝もしくは昼と夜の2回見るのも良いでしょう。
はるか昔に戦場だった場所が、今となっては観光スポットになっているのは面白いですね。
当時の空気こそ感じられませんが、昔その場所で教科書に載っている偉人が命懸けで戦っていたと考えると感慨深いです。
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三種の神器
三種の神器とは以下のものです。
- 八咫の鏡(やたのかがみ)
- 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
- 天叢雲剣(あまのむらくもののつるぎ)
三種の神器は、日本神話に登場する天照大御神から授けられたと言われる3つの宝です。
この3つの宝は、天皇が即位する時に代々受け継がれる仕組みでした。
つまり、三種の神器を手にすることで正当な天皇になれたということです。
しかし天叢雲剣だけ、源平合戦のいざこざの合間に安徳天皇が持ち出します。
そして壇ノ浦で敗れた安徳天皇は、天叢雲剣を抱きかかえたまま、海へと身投げしました。
そこから必死に探しましたが出て来ず、現代になっても見つかっていません。
そのため、現在で皇居に飾られている天叢雲剣は、形代という偽物です。
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壇ノ浦の戦いを、背景や戦いの流れを登場人物と共に解説してきました。
平家には清盛という偉大なリーダーがいましたが、最終的には源氏の勝利で終わりました。
武家同士の覇権争いとして、この壇ノ浦の戦いは初めての大きな戦いと言ってもいいのかもしれませんね。