北条時宗と聞くと、モンゴルの襲来を2回も退けたことで有名ですよね。

政治にも精通し、武力においても名をあげた北条家切ってのエリートです。

しかし、その生涯はあまり知られていないようです。

そこで、この記事では、年表や家系図を使って、北条時宗の生涯をわかりやすく解説いたします。

記事後半は、大河ドラマについても触れていますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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北条時宗とは

まずは北条時宗の簡単なプロフィールと家系図を紹介します。

名前北条時宗(ほうじょう ときむね)
出身地相模国鎌倉
生誕1251年6月5日
死去1284年4月20日
享年34歳(病死)
時代鎌倉時代
職業鎌倉幕府の8代執権

北条時宗は鎌倉幕府の第8代執権であったことが特に有名です。

執権とは簡単に言うと、将軍を手助けする役職のことを言います。

執権は歴代北条氏が務めていて、1203年の第1代執権は北条時政でした。

そこから北条氏が執権を世襲していき、1333年の第17代執権の北条貞将が最後です。

北条時宗の場合は、1266年に征夷大将軍になった惟康親王(これやすのしんのう)の執権から約16年務めました。

北条時宗が死去したのは34歳なので、人生の半分近くを執権という仕事に充てていることになります。

また、当時は征夷大将軍の年齢が3歳です。

幼すぎるので、当然ですが将軍がどういったことをするのかまったく理解していなかったことでしょう。

そのため、当時の鎌倉幕府は実質北条時宗が実権を握っていました。

北条時宗が執権を就いた時に、何もなければ良かったのですが、二月騒動と二度に渡る元寇が起きます。

その対処に追われて、1284年には執権を退いて、次の北条貞時に引き継ぎました。

しかし当時、二つの事件によって相当疲弊していた北条時宗は病気を患います。

このことから、執権という仕事がいかに大変だったのか伝わりますね。

昔は寿命が短かったですが、それにしても34歳は若すぎます。

しかし、34年という短い生涯で偉大なことを成し遂げたことに間違いはありません。

では、北条時宗を死に追いやったといっても過言ではない、元寇がどういったものか、北条時宗の生涯と併せてご紹介します。


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北条時宗の生涯

北条時宗の生涯を見る前に、まずは年表でどういった人生を歩んできたのか見てみましょう。

出来事
1251相模国鎌倉で生誕
1257元服
1264連署に就任
1268鎌倉幕府8代目執権に就任
1272二月騒動
1274文永の役
1281弘安の役
1284病気が原因となって34歳で死去

では、生誕から順番に紹介していきます。

生誕から執権に就くまで

北条時宗は1251年に北条時頼の子供として誕生します。

出身地は相模の国という現在の地名で言うと神奈川県です。

時頼には時輔という兄がいました。

時輔は時頼と側室との間に生まれた子供です。

一方で時宗は正室の子供でした。

地位としては時宗の方が上だったので、弟でありながら家督を継ぐのは時宗だとして、大きな期待を寄せられて育てられました。

そして、時宗が14歳の時に父の時頼が亡くなります。

その結果、時宗が連署という地位に就くことになります。

連署とは鎌倉幕府にある役所の一つで、簡単に言うと執権を補佐する役職です。

連署で執権の仕事を学んで、そのまま執権の役職に就くというのが流れですね。

時宗は連署として経験を積んだのち、1268年に17歳という若さで執権へと昇り詰めます。

まさにスーパーエリートといっても良いでしょう。

現代で例えると、総理大臣の補佐をしている官房長官などの大臣を17歳でしていたということです。

現在の感覚で言うとありえないことですが、それだけ時宗が優秀だったことが分かりますね。


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二月騒動とモンゴルとの対立

執権になった時宗ですが、いきなりモンゴル帝国から目を付けられます。

当時のモンゴルはフビライ・ハンが支配していました。

そのフビライ・ハンから「我が国モンゴルと仲良くしよう。従わなければ攻撃する」という脅迫めいた手紙が届きます。

この日本には何のメリットもない手紙が何回も来ましたが、時宗は何もしませんでした。

使者を送ったり、手紙を送ったりせずに徹底無視です。

その一方で、モンゴルに攻撃されても迎撃できるように、九州で戦いの準備を進めます。

そんな慌ただしい時に、兄の時輔が時宗の地位を奪おうとしていました。

しかしすぐに、時宗に目論みがバレてそのまま殺害されます。

これがいわゆる二月騒動です。


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第1回元寇(文永の役)

1274年になると、フビライ・ハンが宣告通りに日本に攻撃を仕掛けてきます。

モンゴル兵は対馬や壱岐、肥前、博多へと上陸してきました。

戦争が起きても良いように準備を進めていた日本ですが、それでもモンゴルの勢いに押されます。

そのままモンゴルに制圧されるかと思われましたが、神風が発生しました。

神風とは簡単に言うと、大型の台風のことで、その台風のおかげでモンゴル兵が退いたことから神がかった台風と言われています。

神風のおかげて海が荒れに荒れ、モンゴル兵の船は日本に上陸できませんでした。

そのままモンゴル兵を退かせた日本は、またモンゴルが来ると予想して戦争の準備を進めます。

ここで気を緩めないのが、北条時宗の優秀だったところですね。

一度引いたならそのまま来ないと思いがちです。

結果として、モンゴルは2回目の元寇を行ったので、時宗の判断は正しかったですね。


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第2回元寇(弘安の役)

第1回の元寇から7年後に、モンゴルはもう一度日本を制圧するためにやってきました。

モンゴル対策のために作っておいた石の防壁が役に立ちます。

さらにまたしても神風がやってきて、モンゴルは日本に上陸することさえできません。

それでも上陸しようとしたモンゴルは、次々と海に飲み込まれました。

これにより、2度の元寇を退かせたとして北条時宗はまさに英雄となるのです。

しかし、国内の問題は山積みでした。


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元寇後の対応と死去まで

元寇を退かせた日本ですが、それと同時に以下の問題が発生しました。

  • モンゴル撃退に命を懸けてくれた人たちに報酬がなかった
  • 再度元寇に備えないといけなかったがお金がなかった

2度にわたる元寇を防ぐために、国はお金を使い果たします。

その結果、次回の元寇対策と武士たちへの報酬が与えられませんでした。

武士たちは敵を追い返しただけなので、新たな土地を与えることもできません。

このように、幕府はいくつもの経済問題を抱えていました。

その問題が北条時宗にまとめて来たので、ストレスが原因で病気を患います。

そして、そのまま34歳という若さで亡くなりました。

以上が、北条時宗の生涯です。

非常に優秀で、運まで味方につけた時宗ですが、最後は何とも言えない終わり方ですね。

時宗が成し遂げたことは大きいので、もう少し報われても罰は当たらないと感じました。


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北条時宗の大河ドラマ

偉大過ぎる功績を成し遂げた北条時宗は、2001年にNHK大河ドラマで取り扱われていました。

鎌倉時代中期を舞台とした作品は、北条時宗が初めてです。

そのうえ、鎌倉時代中期に限って言えば、2021年3月現在でも大河ドラマでは扱ったことがありません。

貴重な鎌倉時代中期を描いた北条時宗の大河ドラマは、全49回にわたって北条時宗の生涯を表現しています。

非常に上手にまとめられたドラマなので、北条時宗の生涯を分かりやすく学べるでしょう。

ちなみに、大河ドラマの原作は高橋克彦の『時宗』ですが、ストーリーは原作とは別です。

そのため、原作を読んでいても読んでいなくても十分に楽しめます。

ちなみに大河ドラマの代表的なキャストは以下の通りです。

キャスト

  • 北条時宗…和泉元彌
  • 北条時輔…渡部篤郎
  • 北条時頼…渡辺謙
  • 涼子(時頼の正妻)…浅野温子
  • 祝子(時宗の妻)…西田ひかる

超豪華キャストといった感じですね。

俳優として売れている人ばかりが出演しています。

全員演技力が高いので、安心してドラマを視聴できますよ。


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北条時宗の生涯をプロフィールや家系図、年表を使ってご紹介してきました。

北条家という名門に生まれ、かつ努力と才に恵まれながら若くして亡くなったことは非常に残念でなりませんね。

もし、当時モンゴルに支配されていたと思うと、現在の日本がどうなっていたのだろうと想像してしまいます。