依田勉三といえば、「晩成社」設立や「マルセイバターサンド」の元祖となるお菓子を作った人で有名ですよね。

しかし、その裏では苦労が多い人生だったことをご存知ですか?

決して順風満帆な生涯ではなく、幼くしてご両親を亡くし、会社経営もうまくいかなかったり大変な苦労をしています。

この記事では、そんな依田勉三の波乱万丈な人生に迫ります。


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依田勉三とは

まずは依田勉三の簡単なプロフィールを紹介します。

名前依田勉三(よだ べんぞう)
出身地伊豆国那賀郡大沢村
生誕1853年6月21日
死去1925年12月12日
享年73歳(中風症)
時代江戸時代後期~大正時代
職業探検家、開拓者、教育者

依田勉三は伊豆国那賀郡大沢村という場所で、依田家の三男として生誕しました。

ただ、次男が幼くして亡くなったので戸籍上では次男として扱われています。

また、生家が豪農(多くの土地を所有している富裕農家のこと)だったので、生活に困ることはなかったようです。

一見すると幸せそうな生い立ちに見えますが、12歳の時に母親が、14歳の時に父親が亡くなります。

両親を失った後は兄と一緒に、土屋三余の私塾「三余塾」で勉強していました。

そして19歳の時に上京して、スコットランド出身の医師ヒュー・ワデルと出会いました。

さらに、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝とも、この時期に出会います。

その後、慶応義塾に進んで新たな知識を吸収した後に、北海道開拓を決意しました。

しかし、体調を崩したため、故郷に戻ります。

無事体調を回復して、依田勉三は晩成社を設立し、北海道を開拓していくことになります。

以上が、依田勉三の生い立ちです。

波乱万丈な幼少期でしたが、その後は順調に成長しています。

また、19歳にして二人の偉人に出会ったのが依田勉三の転機になった感じですね。

晩成社を設立以降の生涯について、次章で詳しくご紹介します。


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依田勉三の生涯

次に依田勉三の紹介を解説していくために、まずは年表を紹介します。

出来事
1853伊豆国那賀郡大沢村で生誕
1881十勝の開拓を一人で開始
1883晩成社メンバーを連れて本格的な開拓を開始
1892農産業が安定
1897十勝に移民が急増
1916晩成社の活動を休止
1925中風症が原因で73歳に死去

では、年表に沿って晩成社の活動から見ていきたいと思います。

晩成社を結成し開拓を進める

※画像は1893年に建てられた家屋を復元、「晩成社史跡公園」にあります。

依田勉三は1879年に、かねてより考えていた北海道開拓の決意を固めました。

そして、1881年に晩成社の代表発起人として、一人で北海道を訪れます。

見事開田事業に成功して、その功績から依田勉三は十勝開拓の父と呼ばれました。

その後、帰京して今度は晩成社のメンバーを引き連れて、さらなる十勝の開拓準備を整えていきます。

準備が完了したのは1883年で、今度は本格的な開拓を開始しました。

まずは原生林を切り開いて、米や麦などの穀類や野菜類の栽培をします。

しかし、例外やバッタなどの野生動物のせいで、開墾事業は苦労の連続でした。

その一方で晩成社当縁牧場を開設し、牛肉やバターの製造に当たります。

乳製品や肉類の収穫はうまくいって、箱館や東京で販売するほどに成功しました。

この成功も関係して1900年頃になると、十勝への移住者が増えてきます。

そこで再度農作物の収穫にリベンジしていくのです。

農業がうまくいかなかったから、すぐに乳業に転換したのは思い切った発想ですね。

ただ、結果的にそれがうまくいったので、依田勉三の英断は素晴らしいです。


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農産業を反映させる

移住者が増えてきた十勝は、人が住めるように開拓を進めていきます。

当時の生活は質素なもので、大樹町に現在も残っている依田勉三の住居を見るとかなり質素であることが分かります。

そんな中、開拓も思ったほど進みません。

というのも、当時北海道に多く見受けられた屯田兵(普段は農家でありながら、戦争が起こると出兵する)がいなかったからです。

そのため、晩成社のメンバーしかいませんでした。

そこで本州に住んでいる民間の開拓移民と力を合わせて、開拓を進めていったのです。

結果的に開拓も進んで農産業も発展していきます。

また、土地が広くなったことでバター工業や缶詰工場、練乳工場なども作りました。

これらの工場は現在の十勝に根付く産業になります。

例えば現在、北海道の中でも代表的なお菓子メーカー・六花亭のそのうちの一つです。

六花亭では「マルセイバターサンド」という商品を販売しています。

実は、マルセイバターサンドは晩成社が最初期に作り出したバターの商標「マルセイバタ」が由来です。

晩成社の「成」を丸で囲んでマルセイと名付けられました。

ちなみに、パッケージのそのラベルを利用されています。

このように現代にも大きな影響を及ぼしている晩成社ですが、当時の経営状態は良くありませんでした。


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晩成社の活動を休止

経営がうまくいかなかったので、1916年に農場を売却して活動を本格的に休止します。

さらに1925年に依田勉三が中風症を患って、12月12日に亡くなりました。

以上が、依田勉三の生涯です。

晩成社を率いた依田勉三の活躍は非常に偉大でした。

彼がいなければ、十勝の乳業が今ほど栄えていなかったでしょう。

現代にも大きな影響を与えた依田勉三の功績は、ぜひとも覚えておきたいですね。


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なつぞらに晩成社が登場

北海道に大きな影響を与えた晩成社は、朝ドラの「なつぞら」でも描かれています。

作中では十勝開拓の祖と呼ばれる晩成社と、酪農の付加価値を高めるバター作りが登場しました。

「バターチャーン」と呼ばれる道具を使って、ヒロイン・奥原なつらが牛乳からバターを作り、ジャガイモと一緒に味わっっています。

この話は事実に基づいていると、十勝周辺で話題になったようです。


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依田勉三記念館

北海道の開拓史に偉大な功績を残した依田勉三は銅像が建てられています。

依田勉三記念館

  • 所在地… 〒080-0803  北海道帯広市東3条南2丁目中島公園内
  • 電話番号…011-511-3924

銅像は大きな台座の上に建てられています。

格好は笠と蓑をまとっていて、地面に突き刺した鍬に両手を置いて、勇ましい表情をしています。

その表情から開拓の意図が組み取れるはずです。

依田勉三のすごみを感じたい方は、現地に訪れてみるのも良いでしょう。


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依田勉三の生涯をプロフィールや年表をもとにご紹介してきました。

開田から開拓、さらに会社設立まで十勝帯広方面の発展に貢献してきたことがよくわかる人生だったと思います。

バターなどの酪農製品が有名なのも、依田勉三のおかげかもしれませんね。