金原明善とは財団や会社を設立した実業家として知られていますよね。
しかし、それらは天竜川を修復、またはその流域を発展させるために作ったものだということを知っている方は少ないかもしれません。
そこで、金原明善について、プロフィールや年表から、その生涯に迫ります。
記事後半は、記念館についてもご紹介していますので、ぜひ最後まで付き合いくださいね。
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金原明善とは
まずは金原明善の簡単なプロフィールをご紹介します。
名前 | 金原明善(きんぱら めいぜん) |
出身地 | 遠江国長上郡安間村 |
生誕 | 1832年7月4日 |
死去 | 8415 |
享年 | 90歳 |
時代 | 明治時代 |
職業 | 実業家、治水・植林事業者、銀行家 |
金原明善は1832年に父・範忠と母・志賀の間に、幼名・弥一郎として生まれました。
生まれた家は酒造業と質屋を同時に運営する大地主です。
また、父は理財の才に優れていたので、金原家は十分に裕福だったと言えるでしょう。
一方で母・志賀は37歳という若さで亡くなります。
金原家の行く末に不安を感じた志賀は、明善の継母と妻に遺言を残しました。
その結果、金原明善は24歳の時に、継母の連れ子である玉城と結婚します。
結婚した明善は父から名主を受け継ぎ、1857年には父の名代として江戸へ上京しました。
江戸では債務整理の仕事をしっかりとこなし、空いている時間を儒学の勉強に充てていました。
以上が、金原明善のざっとした生い立ちになります。
生まれた家は裕福でお金には苦労しなかったようですが、早くに母親を亡くしたのは辛いですね。
しかし、死んだ後のフォローが素晴らしく、明善は健全に育ちました。
母親の偉大さを思い知りますね。
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金原明善の生涯
続いて、金原明善の生涯を解説していくために、まずは年表を紹介します。
年 | 出来事 |
1832 | 遠江国長上郡安間村で生誕 |
1856 | 継母・沢の連れ子である玉城と結婚 |
1868 | 天竜川復旧計画に着手 |
1869 | 天竜川卸普請専務に就任 |
1874 | 天竜川通堤防会社を設立 |
1877 | 大久保利通に謁見 |
1885 | 天竜川山間部の植林計画・疏水事業を開始 |
1904 | 金原疏水財団を設立 |
1923 | 死去 |
では年表に沿って、天竜川の治水をメインに紹介していきます。
天竜川が決壊
1868年に長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へと続く天竜川が、大雨によって決壊します。
その結果、浜松などに多大な損害をもたらしました。
しかも決壊は一度だけでなく、計5回も発生したので一つの村を沈めるなど、金原明善にとって忘れられない災害になりました。
そんな状態で世間は明治維新を迎えて、政府が交代します。
早速、金原明善は京都に行って天竜川の治水計画を申し出ました。
最初は聞き入れてもらえませんでしたが、東海道の補修を目的として新政府は水害工事に当たります。
もちろん金原明善も工事に協力して、そのすぐれた手腕によって約2カ月で大部分の補修を終えました。
その偉大な功績が認められて、明治天皇から「苗字帯刀」という身分を許される名誉を得ます。
さらに、天竜川卸普請専務に任命され、1874年には天竜川通堤防会社を設立しました。
金原明善の素早い行動はさすがですね。
洪水の被害を受けた人たちにとって、まるでヒーローのように見えたでしょう。
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大久保利通に謁見
1877年に金原明善は大久保利通に謁見します。
最初は身分の差から受け入れてもらえないと思っていましたが、天竜川の功績が大久保利通にも伝わっていたようです。
その奮闘を認められて謁見が叶い、謁見では治水についての話し合いが行われました。
しかし、1883年に流域の住民の利害争いが発生して、天竜川通堤防会社は倒産しました。
そのため、治水計画は国や県が引き継ぎます。
一方で金原明善は、天竜川流域の山間部の植林事業に取り組みました。
この時に植えた木が天竜杉となって、林業発展のきっかけとなります。
その後は疏水事業へと着手しました。
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第三の計画である疏水事業を開始
※画像は金原明善の墓
疏水とは土地を切り開いて作った水路のことです。
疏水事業を行うことで、天竜川の潤沢な水を二つの方向に分けます。
しかし、この計画は技術的な理由から県の許可を得られませんでした。
そこで明善は、1904年に金原疏水財団を設立します。
こうすることによって、明善は疏水計画を進められるようになりました。
また、この計画には多額な費用が必要でしたが、すべて金原明善が負担するという懐の深さを見せます。
しかし、金原明善が計画を実行する前に亡くなってしまいました。
その結果、すぐに工事は始まらず、着工したのは15年後の1938年です。
そして、工事が完了したのは1979年と約1世紀もかかって、ようやく実現しました。
ちなみに、現在では浜松市を中心とする県西部地域は、国内有数の農業地帯です。
このように金原明善は、天竜川の復旧から発展までを命懸けで行いました。
県からの協力も得られなかったのに、計画を実現させたのはすごいですね。
費用も負担するなど、こんなにも懐の深い人物はそうそういないでしょう。
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金原明善記念館
金原明善はその功績から記念館が建てられています。
- 名称…明善記念館
- 所在地…〒435-0012 浜松市東区安間町1
- 電話番号…053-421-0550
- 営業時間…9:00-17:00
- 休館日…月曜日・火曜日・水曜日・年末年始
- 入館料…無料
明善記念館(生家)では、金原明善の遺品や資料を展示しています。
金原明善についてもっと詳しく知りたいという方は、明善記念館を訪れてみるのも良いでしょう。
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金原明善についてプロフィールや年表からその生涯をご紹介してきました。
天竜川の開拓者と言ってもいいくらい、その功績はすごいものがありましたよね。
裕福な家庭に生まれたこともあるのかもしれませんが、私財をなげうってまで疏水計画を成し遂げたのはまさに偉人と言っても過言ではありませんね。