島義勇と言えば、現在の札幌の基盤を作った人物として知られていますよね。

しかし、なぜそのように呼ばれるのか知らない方も多いようです。

そこで、島義勇の生涯をプロフィールや年表を交えながらわかりやすく解説していきます。

記事後半は、銅像や子孫についてもご紹介していますので、ぜひ最後までお付き合いくださいね。


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島義勇とは

まずは島義勇のプロフィールを簡単に紹介します。

名前島 義勇(しま よしたけ)
出身地肥前国佐賀城下精小路
生誕1822年10月26日
死去1874年4月13日
享年51歳(斬首刑)
時代江戸後期~明治初期
職業佐賀藩士、明治政府官吏

島義勇は1822年に下級藩士・島市郎右衛門と妻・つねの長男として誕生しました。

そして9歳になると弘道館の蒙養舎に入塾します。

蒙養舎は17歳以下が学ぶ塾の一つで、十代藩主直正が建造したものです。

1836年に蒙養舎を卒業し、引き続き弘道館に入塾します。

蒙養舎は問題なく卒業できましたが、弘道館でも優秀な成績を残しました。

本来であれば、島義勇が弘道館を卒業するのは25歳の予定だったのですが、23歳で卒業するという優秀さを見せつけます。

卒業後は家督を引き継ぎました。

以上が、島義勇の簡単な生い立ちです。

島義勇は子供時代から非常に優秀だったようですね。

現代でいう飛び級をしていて、20代にして家督に就いているのはすごいです。


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島義勇の生涯

続いて島義勇の生涯を解説するために、誕生してから死去するまでの年表を紹介します。

出来事
1822肥前国で生誕
1844家督を継ぎ諸国を遊学
1856蝦夷地と樺太を探検調査
1867戊辰戦争における陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付に就任
1869蝦夷開拓御用掛に就任
1870蝦夷地開拓を解任され帰京
1872秋田県の初代権令(知事)に就任
1874斬首刑で死去

島義勇が行った功績の中でも大きいのが蝦夷地開拓です。

では、その点も含めて島義勇の生涯を見ていきましょう。

蝦夷地・樺太の調査を開始する

島義勇は家督を継いでから諸国を旅して勉強します。

1856年には、藩主・直正の命で蝦夷地・樺太の調査を行いました。

その記録は『入北記』として残っています。

1858年に調査を終えて、香焼島守備隊長に就任しました。

続けて1867年に行われる戊辰戦争で、陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となります。

戦争中は新政府の東北地方征討に尽力しました。


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北海道を開拓する

1869年に蝦夷地が北海道と改称されて、藩主・直正が蝦夷開拓督務になります。

直正から信頼されていたうえに、過去に蝦夷地を調査した経験から、島義勇は蝦夷開拓御用掛に任命されました。

一方新政府はロシアの南下政策に危機感を感じています。

実際にロシアの戦艦が岸に上陸して、無法な行動を行っていました。

そのため、新政府は北海道を開発することが、最優先事項であることを結論付けます。

そこで政府は本府建設の責任者に、島義勇を任命しました。

早速、島義勇は原生林を切り開いて、札幌に官舎や倉庫を建築します。

引き続き、銭湯や旅館、飲食店、商店なども設立しました。

このように、島義勇は札幌を拠点に街づくりを行っていきましたが、すべてが順調にいったわけではありません。


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北海道開拓に苦戦する

北海道開拓に苦戦した主な理由は以下のものです。

苦戦した理由

  • 食料不足が発生
  • 役所の縄張り争いが発生
  • 兵部省や東久世と対立

このように、さまざまな要因が重なって開拓は苦戦します。

結果が思うように出ないことを受け新政府は、島義勇を北海道開拓の責から解任してしまいます。


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帰京後に佐賀の乱を起こして死去

帰京した島義勇は秋田県の初代権令に就任して、八郎潟干拓施策を打ち出しますが、わずか4カ月程度で退官となります。

その後、島義勇は郷里・佐賀において憂国党の党首となり、1874年に江藤新平と共に佐賀の乱を起こしました。

佐賀の乱とは、西南戦争の3年前に起こった、「不平士族の反乱」の一つです。

しかし、戦争には敗北します。

そのまま、鹿児島まで逃げて、島津久光を頼りにしました。

大久保利通に助命を乞うように懇願しましたが、受け入れてもらえるず捕らえられます。

そして、1874年4月11日に斬首刑となり、51歳で死去することになります。

以上が、島義勇の生涯です。

才にに恵まれていたのは間違いないのですが、最後は何とも言えない死に方ですね。

ただ、島義勇が北海道の開拓を行ったことは大きいです。

島義勇の力がなければ、今とは違った北海道になっていたかもしれません。


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島義勇の子孫

島義勇の子孫はいるようですが、当時の資料としては詳しい情報はありません。

唯一あったのは、島義勇の銅像が設立された時の除幕式に参加していたことだけです。

セレモニーが行われたのは2018年と最近のことなので、子孫が今もご健在なのは間違いないと思われます。

ちなみに、島義勇は結婚や子供がいたこともあまり知られていません。


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島義勇の銅像

先ほど軽く触れたように、島義勇の銅像は佐賀県に建てられています。

島義勇の銅像

  • 名称…佐賀城公園「西御門橋」
  • 設立年…2018年
  • 所在地… 〒840-0041 佐賀市城内1丁目10-11
  • 電話番号…TEL/FAX 0952-22-5047

こちらの銅像は蝦夷地調査に出発する場面を描いています。

また、島義勇の銅像は佐賀城公園だけではありません。

他の地にも銅像が建てられていて、佐賀城公園をのぞくとあと2つあります。

  • 北海道神宮…開拓三神の神鏡を背負って札幌入りする場面を描写
  • 札幌市役所…丘の上から原野を見渡して札幌建設を志す姿を描写

このように場所によって銅像の姿も異なります。

現在の札幌を作った人物として、島義勇の銅像のある場所を訪れてみるのも良いでしょう。


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島義勇の生涯についてご紹介しました。

幼い時から才覚を発揮し、頭角を表したのは才能に恵まれていたのかもしれませんね。

幕末ということもあり、無念な最期を遂げることになってしまいますが、時代が変わればさらに活躍の場を広げていたのだろうと思いましたね。