榎本武揚と言えば、旧幕府軍を率いて新政府軍と戦争をし敗北した、というイメージがあるかもしれません。

しかし、その後の人生は大活躍そのものなのです。

この記事では、榎本武揚の生い立ちや、敗北からどのように復活劇をとげたのか詳しく解説いたします。

記事後半は、鉄隕刀や土方歳三との関係も解説しますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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榎本武揚とは

まずは榎本武揚の簡単なプロフィールをご紹介します。

名前榎本武揚(えのもと たけあき)
出身地武蔵国江戸下谷御徒町(現:東京都台東区浅草橋)
生誕1836年10月5日
死去3222
享年72歳(腎臓病)
時代江戸時代~明治時代
職業海軍中将、日本の武士、化学者、外交官、政治家

榎本武揚は1836年に榎本武規の次男として生まれます。

幼少期は近所にあった田辺石庵に入塾して、主に儒学を学んでいました。

田辺石庵を卒業後は昌平坂学問所に入学します。

大人になってからは政治家や科学者という頭の良いイメージですが、当時は成績が悪かったようです。

その証拠に、昌平坂学問所を修了した時に得た成績は最も低い「丙」でした。

そんな榎本武揚は大人になってから、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館に赴きます。

しかしその後、1855年に長崎海軍伝習所に入学しました。

長崎海軍伝習所では、主に機関学や化学を学びます。

前回の塾とは違った分野だったせいもあり、成績が良く先生から高い評価を得ていました。

長崎海軍伝習所を修了した後は、オランダ留学の準備を進めます。

以上が榎本武揚の簡単な生い立ちです。

幼少期はあまり勉強できなかったのは意外ですね。

しかし、学ぶ分野を変えると、頭角を現したのはさすがです。


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榎本武揚の生涯

続いて、榎本武揚の生涯を分かりやすく解説するために、簡単な年表をご紹介します。

出来事
1836江戸で生誕
1856長崎海軍伝習所入所
1862オランダ留学
1869箱館を占領、しかし新政府軍に降伏
1872開拓使に就任
1875樺太・千島交換条約を締結
1880海軍卿に就任
1885初代逓信大臣に就任
1908腎臓病を患い72歳で永眠

では、オランダ留学から上記の年表に沿って見ていきましょう。

オランダに留学し化学などを学ぶ

榎本武揚は1862年に内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良たちとオランダへ留学します。

留学直前で病気を患うなどハプニングはありましたが、無事にロッテルダムに到着しました。

オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になります。

その地で榎本武揚は船舶運用術や砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学びました。

その後はイギリスやフランスなど、ヨーロッパ各所をめぐり、1867年に日本に帰国します。

さらに、留学経験を評価した幕府は榎本武揚を軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任じました。

ちなみに、1867年にオランダ留学生の仲間である林研海の妹と結婚します。


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旧政府軍と共に箱館に逃げる

1867年に帰国した榎本武揚ですが、当時の幕府は新政府軍の攻撃を受けて虫の息でした。

明治新政府が榎本武揚に降伏するように伝えますが、それを拒みます。

そして、榎本武揚ら旧政府軍は蝦夷地の箱館へと逃げました。

箱館で新政府軍を迎え撃とうとしましたが、作戦は失敗に終わり、五稜郭の戦いで新政府軍に降伏します。

その後、榎本武揚は自殺しようとしますが、榎本の能力を高く評価していた黒田清隆たちに救われます。

黒田清隆のおかげて1872年に出獄できたのですね。

出獄後に達成した2つの功績

榎本武揚は罰を受けた後に、黒田清隆が次官を務める北海道の開拓使を命じられます。

黒田清隆と共に大きな功績を残しました。

そしてもう一つの功績が樺太・千島交換条約です。

当時、樺太は日本のものではなかったので、ロシアが支配下に入れようとしていました。

そこで榎本武揚がロシアに交渉し、明確な国境を定めることに成功します。

北方領土問題は現在も解決していませんが、榎本武揚がいなければもっとひどいことになっていたでしょう。


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内閣の大臣に就任

偉大な功績を残した榎本武揚は、1885年に発足した第一次伊藤内閣の逓信大臣に就任しました。

その後、文部大臣→外務大臣→農省務大臣と歴任します。

順調に重役ポストに就いていた榎本武揚ですが、1908年に腎臓病を患いました。

そのまま回復することなく1908年10月26日に死去します。

以上が、榎本武揚の生涯です。

なんといっても、彼の生涯で黒田清隆との出会いが大きかったでしょう。

もし、彼と出会っていなくて、評価してもらえていなかったら、五稜郭の戦いのときに自血していました。

そうすれば樺太・千島交換条約も締結されていません。

榎本武揚の人生を語る上では、黒田清隆の存在は欠かせませんね。


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榎本武揚の刀

榎本武揚はロシアと外交している時に鉄隕石で作った剣の存在を知ります。

その刀に魅せられた榎本武揚は、日本でもその刀を作りたいと強く願うようになりました。

早速、鉄隕石を富山県で発見し、自腹で購入したのですね。

そして、刀公の岡吉国宗に依頼しました。

その結果、日本で初となる流星刀が誕生します。

流星刀は計5本作製され、現在は東京農業大学に長刀が1振り、富山市天文台に短刀が1振り収蔵されています。


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榎本武揚と土方歳三の関係

榎本武揚は、戊辰戦争で土方歳三と共闘していました。

当時新選組は解体していて、榎本率いる旧政府軍に合流したという流れです。

その後、五稜郭を本陣とする「蝦夷共和国」が成立し、土方は幹部に就任しました。

しかし、五稜郭の戦いで土方は戦死します。

一方、戦争で生き残った榎本武揚は黒田清隆のおかげで助かったということですね。


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榎本武揚の生涯をプロフィールや年表を使ってご紹介してきました。

戦争には敗北しましたが、その後の人生はまさに大成と言ってもいいですよね。

特に、黒田清隆との仲は、「昨日の敵は今日の友」と呼んでも差し支えないと思いました。