黒田清隆と聞くと、総理大臣を務めた人というイメージがありますよね。

でも、それまでにどのような活躍をしたのか、ということまで理解している方は少ないかもしれません。

そこで、黒田清隆の生涯について、年表やプロフィールにそってわかりやすく解説しました。

記事後半は、子孫についてもご紹介していますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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黒田清隆とは

まずは黒田清隆のプロフィールをご紹介します。

名前黒田清隆(くろだきよたか)
出身地鹿児島県 鹿児島市 新屋敷町
生誕1840年11月9日
死去1900年8月23日
享年59歳(脳溢血)
時代明治時代
職業日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人(陸軍中将)、政治家

黒田清隆は1840年に薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれました。

黒田家は下級武士でしたが、幕臣・江川英龍に学び、砲手になります。

その後は武士として活躍し、戦争にも参加していました。

1863年には薩英戦争に参加し、江戸で砲術を学びます。

メキメキと出世した黒田清隆は、1866年の薩長同盟にも関与するほどの大物になりました。

薩長同盟の際には、薩摩側の使者として長州で同盟を説いたと言われていて、黒田清隆の活躍なくして薩長同盟は、結ばれなかったと言っても過言ではありません。

そう考えると、とても交渉上手と言っても過言ではありませんね。

その後は陸軍軍人や政治家となって、より一層活躍していきます。


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黒田清隆の生涯


続いて黒田清隆の生涯を分かりやすく解説するために、まずは年表を紹介します。

出来事
1840鹿児島市で生誕
1866薩長同盟の締結に関与
1868鳥羽・伏見の戦いに参加
1870樺太専任の開拓次官に就任
1871アメリカ・ヨーロツパ各国を視察
1876日朝修好条規を締結
1888第2代内閣総理大臣に就任
1889首相退任後、枢密院議長になる
1900脳溢血で死去する

では、黒田清隆の生涯を年表に沿って見ていきましょう。

戊辰戦争に参加

薩長同盟で大きな活躍をした黒田清隆は、1868年から始まった戊辰戦争にも参加します。

まずは戊辰戦争の始まりとなった鳥羽・伏見の戦いに、薩摩藩の小銃第一隊長として参加しました。

その後、北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に、山縣有朋とともに任命されます。

そこからも鯨波戦争や北越戦争に参戦・勝利してきます。

結果的に黒田清隆は新発田藩や庄内藩、米沢藩を降伏させることに成功しました。

そして1896年、旧幕府軍との最後の戦いをするべく箱館に向かいます。

旧幕府軍は榎本武揚が指揮をとっています。

黒田は榎本武揚の能力を高く評価していたので降伏を求めます。

すると榎本武揚は降伏し、黒田は彼の助命を希望しました。

黒田の活躍もあって1872年に榎本武揚は解放されて、新政府において大臣として歴任していきます。

一方で北海道にいた黒田は樺太でのロシアからの圧力が増したので、1870年に樺太専任の開拓次官となりました。


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北海道を開拓

開拓次官に就いた黒田清隆は樺太や北海道の開拓に尽力します。

まずは現状を知るために北海道を視察しました。

その成果をもって帰郷して、樺太は3年も保たないという結論を出します。

明治政府はその推論を聞き入れて、黒田に北海道全域の開拓に関するすべてを任せました。

そして、黒田は開拓に必要な外国人技術者を確保しに行きます。

向かった先はアメリカ合衆国とヨーロッパ諸国です。

旅行中に米国の農務長官ホーレス・ケプロンと出会って、顧問に赴くことを承諾しました。

続けてお雇い外国人の招へいも行います。

帰国後、開拓の功績を認められて1874年には開拓官に就任し、陸軍中将の地位も得ました。


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日朝修好条規の締結

1873年に西郷隆盛と大久保利通が征韓論をめぐって対立します。

その争いが激化する中、黒田は大久保を支持していました。

その理由は北海道の開拓にあたって、北の大国ロシアの脅威を感じていたからです。

結果的に、大久保の勝利に終わります。

そして、1874年に榎本武揚の活躍によって樺太千島交換条約が締結されました。

一方で黒田は1875年の効果等事件をきっかけに、1876年に朝鮮と日朝修好条規を締結します。

その後は暗殺された大久保利通に変わって薩財の重鎮になるなど経歴を重ねて、1888年に第2代内閣総理大臣になります。

しかし、総理大臣は1年ほどしか持たず、退任後は重役を歴任しました。

そして、1900年に脳溢血が原因で死亡します。

以上が、黒田清隆の生涯です。

北海道開拓に大きな貢献をしました。

特に北海道の必要性を述べて、政府に直談判しにいったのはすごいです。

しかもその熱意が伝わって、開拓をすべて任されています。

北海道は現在発展していますが、もし黒田清隆がいなければ今日の北海道はなかったかもしれませんね。


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黒田清隆内閣

黒田清隆内閣は1888年4月30日から1889年10月25日まで続きました。

黒田内閣が行ったことで一番大きいものは大日本帝国憲法の発布です。

そして、憲法を発布するにあたって、超然主義を宣言しました。

超然主義とは、政党の動向に左右されずに、超然とした態度で公正な政策を行うという政治体勢のことです。

このように、日本の歴史において大切な事を行っていますが、わずか1年で退任となります。

その理由は外務大臣の大隈重信が爆弾で襲撃されたからです。

退任後は初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が内閣総理大臣に戻ります。


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黒田清隆の子孫

黒田清隆の子孫は黒田清久さんだけです。

他にもいるかもしれませんが、正式に登録されているのは清久さんだけだとされています。

清久さんの現在の活動は不動産業、ホテル業、私塾等経営ほか、全国、海外で講演など幅広く活動しています。


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黒田清隆のプロフィールや年表に沿って、その生涯をご紹介してきました。

開拓者という一面だけではなく、総理大臣まで勤めているということは、かなりリーダーとしての素質があった方だということがわかります。

超然主義という考え方も、時代を先取りしているかのようで、先進的な考えの持ち主だったのかもしれませんね。