高田屋嘉兵衛というと、北海道の函館で商売をしていたというイメージがありますよね。

しかし、歴史上とても重要な役割も果たしていることをご存知でしょうか?

もしかすると、この人物がいなければロシアの支配下に置かれていたかもしれないというほど、大切な役割を果たしているのです。

この記事では、高田屋嘉兵衛のプロフィールから生涯まで詳しくご紹介しますので、ぜひご覧になってくださいね。


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高田屋嘉兵衛とは

まずは高田屋嘉兵衛のプロフィールをご紹介します。

名前高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)
出身地兵庫県 淡路島 都志本村
生誕1769年2月7日
死去1827年4月30日
享年58歳
時代江戸時代後期
職業廻船業者、海商

高田屋嘉兵衛は淡路島で6人兄弟の長男として生誕しました。

幼少期から海に興味があったようで、よく川や海など水辺で遊んでいたと言われています。

また、少年時代には海に関する逸話を残しているほどです。

その逸話とは、高田屋嘉兵衛の近くにある川におもちゃの船を浮かべて、そこから潮の満ち引きを調べたというものです。

当時、大人でもそのようなことができなかったため、大人たちは驚いて現在でもその逸話は語られています。

その後、順調に成長して、22歳にの頃に生まれ故郷の淡路島を離れて、兵庫へと旅立ちました。

そこから死去するまでさまざまな伝説を残すことになるのです。


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高田屋嘉兵衛の生涯

高田屋嘉兵衛の生涯を分かりやすく解説するために、まずは年表を紹介します。

出来事
1769兵庫県淡路島で生誕する
1790大坂と江戸の間を航海する樽廻船水主になる
1796「辰悦丸」を手に入れる
1798弟の金兵衛を箱館の支配人にして商売を始める
1800択捉島では17か所の漁場を開き、アイヌ人に漁法を教える
1811ロシア皇帝艦ディアナ号のゴローニン艦長を捕縛
1813リコルドと日露交渉する
1818生まれ故郷の淡路島に帰還
1827自宅でひっそりと死去する

中でも大きな功績は北方の漁場を開拓したことと、ゴローニン事件を解決したことです。

では、年表に沿って高田屋嘉兵衛の生涯を解説していきますね。

兵庫で有名な船乗りになる

22歳で兵庫にたどり着いた高田屋嘉兵衛は、叔父の堺や嘉兵衛で祖父や弟と共に働きます。

淡路で逸話を残した高田屋嘉兵衛はすぐに活躍して、どんどん出世、1792年には所帯を持って、その態勢を盤石にします。

その後、すぐにカツオ漁に出て、船を作るために資金集めをしていました。

そして、1796年にその当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の「辰悦丸」を手に入れます。

この船を手に入れて北方へと向かうことになります。


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北方漁場を開拓する

辰悦丸で北方へ向かった嘉兵衛は蝦夷地で商売をします。

当時、蝦夷地は松前藩に支配されていましたが、特に問題になる点はありませんでした。

そして、1798年には弟の金兵衛を箱館の支配人とします。

一方で本人は兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて、箱田で販売していました。

商売が順調に進んでいたので、1799年には択捉島開拓を行います。

国後島と択捉島間の航路を開拓しながら、最終的には択捉島で17か所の漁場を開きました。

また、現地に住むアイヌ民族に両方の指導も合わせて行います。

この功績から1801年に幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられることになります。


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ゴローニン人事件を解決する

高田屋嘉兵衛が順調に功績を残す中、日本とロシアの関係悪化が問題となっていました。

ロシアが通商を求めていましたが、日本は鎖国中だったので断り続けます。

その結果、ロシアが怒って択捉島や樺太を攻撃しました。

日本はそのやり返しとして、ロシア船ディアナ号の艦長ゴローニン他数名を捕縛します。

捕まらなかったリゴルドは日本と交渉するために、日本船を捕らえて乗組員を人質にしました。

その中にいたのが高田屋嘉兵衛です。

捕らえられた高田屋嘉兵衛は好待遇を受けていて、リゴルドとの仲を深めていきます。

そして、1813年に嘉兵衛とリゴルドは日露交渉を行いました。

その結果、両者のわだかまりが解かれてゴローニンは解放されます。

このように、高田屋嘉兵衛はゴローニン事件において非常に大切な役割を演じました。

事件が終了した後は、体調を崩したため地元に戻ります。

しかし、体調が回復することはなく、1827年に59歳で生涯を終えました。

以上が、高田屋嘉兵衛の生涯です。

こうして見ると、非常に大切な役割を担っていますね。

特にゴローニン事件での功績が大きいです。

もし高田屋嘉兵衛がいなかったら、歴史にもう一つ戦争が起きていたと言っても過言ではありません。

高田屋嘉兵衛は比較的マイナーな偉人ですが、彼がしたことはしっかりと覚えておきたいです。


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高田屋嘉兵衛の子孫

高田屋嘉兵衛の血は、8代目の高田菜々さんが受け継いでいます。

高田菜々さんは平成24年8月から、高田屋嘉兵衛の遺品や古文書を展示している北方歴史資料館の館長をしていました。

この資料館は高田屋嘉兵衛の7代目子孫が作ったものです。

ちなみに、北方歴史資料館は2014年に閉館しています。


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高田屋嘉兵衛公園(資料館・記念館)

高田屋嘉兵衛の功績を紹介する資料館は以下の場所にあります。

高田屋嘉兵衛公園

  • 名称…ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園
  • 所在地… 〒656-1301  兵庫県洲本市五色町都志1087
  • 電話番号…0799-33-1600

こちらの公園では博物館 高田屋顕彰館・歴史文化資料館のほかにも、温泉入浴施設、公共の宿、ログハウス、キャンプ場、スポーツ施設まであります。

普通に楽しめる施設になっているので、高田屋嘉兵衛の功績を見に曽比に行くのも良いでしょう。


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高田屋嘉兵衛の生涯についてご紹介してきました。

函館を発展させた商売人としてのイメージが強いですが、ロシアとの関係改善にも一役買っていたとは驚きですね。

函館に行った時は、ぜひ銅像を実際に見てみたい気持ちが強くなりました。