松浦武四郎というと、「北海道」の名付け親として有名ですよね。

しかし、いつの時代に生き、どのような活躍をしたのかということまで、ご存知の方は少ないかもしれません。

私も同様で、「北海道」の名付け親以外には、知識がありませんでした。

そこで、今回「松浦武四郎」という人物がどのような時代に生き、どんな功績を残したのか調査しましたので、その内容をシェアさせて頂きますね。

記事後半は記念館情報も載せていますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。


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松浦武四郎とは

松浦武四郎について、まず「年表」からご紹介し、そのあとで詳しく「生涯」について迫っていきますね。

年表

松浦武四郎の生涯を年表にまとめるとこちらです。

出来事
1818松阪市小野江町で誕生する
1830津藩平松楽斎の私塾に学ぶ
1834全国を巡る旅に出る
1844「四国遍路道中雑誌」を執筆
1845第1回蝦夷地探査(1858年までに6回行う)
1855幕府から蝦夷地御用御雇入の命を受ける
1869蝦夷開拓御用掛に任命される
1870北海道人と号して「千島一覧」という錦絵を描く
18882月10日に死去
1889大台ケ原へ追悼碑が建立される

この生涯において、約150冊の調査記録書を遺しました。

また、今の北海道を「北海道」と名付けたのも松浦武四郎です。

では、具体的に松浦武四郎の生涯について紹介していきます。


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松浦武四郎の生涯

松浦武四郎の生涯を以下のポイントで解説していきます。

  • 13歳に津藩平松楽斎の塾に通う
  • 17歳から日本全国へ旅に出る
  • 蝦夷地に向かいアイヌ民族と出会う
  • 全6回に渡る蝦夷地調査を行う
  • アイヌ民族が衰退してからも訴えを続ける
  • 命を狙われるも訴えを続けて生涯を終える

青年期

13歳の松浦武四郎は、津藩の学者平松楽斎の私塾に通っていました。

しかし、17歳の時に本格的な旅を開始します。

旅先は日本全国で近畿→中国→四国→近畿の順番でした。

蝦夷地に向かいアイヌ民族と出会う

全国を回ったあと中国とインドに向かおうとしましたが、江戸時代の鎖国制度によって長崎に滞在することになります。

長崎で他国の情報を集めて、蝦夷地が狙われていることを知り、そこで自分に何かできないかと考えた武四郎は蝦夷地へと向かいます。

28歳ではじめて蝦夷地に向かった武四郎はアイヌ民族と出会い、一緒に過ごすうちにアイヌ文化について触れます。

自分の知る文化とは異なる文化でしたが、素晴らしいと強く感じたのですね。

その感動をより多くの人々に伝えるために、紀行本を執筆して、アイヌ文化の紹介に力を注ぐことになります。


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全6回に渡る蝦夷地調査を行う

その後、松浦武四郎は6回に渡る蝦夷地調査を行ったというわけです。

調査でアイヌ語の地名や地形、動植物、アイヌ文化など見聞きしたことを事細かに記録していくことになります。

この記録は蝦夷地に関心を持っていた大名が、写しに来たというほどクオリティが高いものだったのです。

こうして武四郎の名前は知れ渡って、幕府からお雇い役人として調査することを任命されます。

しかしその後、アイヌ民族は「場所請負制度」と「撫育同化政策」によって苦しめられることになり、その結果、徐々に衰退していきます。

衰退し切る前にアイヌ民族は蜂起しました(シャクシャインの戦い)が、いずれも鎮静化させられて完全に落ちぶれてしまう結果になりました。

アイヌ民族が衰退してからも訴えを続ける

その時、松浦武四郎はアイヌ民族の命と文化を救うべきであるということを訴えます。

1859年には『蝦夷漫画』という本で、アイヌ人の生活文化を伝えました。

しかし、アイヌ民族に肩入れしているとみなされて、松前藩から狙われて暗殺されそうになります。

それでも武四郎は死ぬ最後まで、アイヌ民族の訴えをさまざまな書物で伝え続けることに注力しました。

そして、1888年東京で脳出血によって死去します。

このように、松浦武四郎はアイヌ民族のために、命懸けで訴えを続けていました。

現代日本は海外の文化も入ってきていますが、頭ごなしに否定するのは良くないと分かりますね。

武四郎のように実際に体験してみて、周りに流されることなく、自分の信念を貫くことが大切だと分かります。


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子孫

松浦武四郎の子孫は松浦一雄です。

松浦一雄は武四郎の五代目に当たります。

ちなみに、2006年には松浦一雄と武四郎を案内した「イソリツカラ」という名のアイヌ民族の子孫である、中田美津枝が対面したことで話題になりました。

では、松浦一雄がどんな人なのか簡単に見ていきましょう。

  • 日本の工学士
  • 超音波霧化分離の研究を行った
  • ナノミストテクノロジーズ株式会社も代表取締役

松浦一雄は現在、会社の代表取締役ですが、それ以前は研究者をしていました。

その研究者の経歴の中でも特に有名なのが「超音波霧化分離」です。

超音波霧化分離を簡単に言うと、超音波を液体に照射することで液体が霧化し分離する技術のことを言います。

この技術は加湿器や除菌噴霧器など、身近なところで使われている非常に大切な技術です。

その後、2011年にナノミストテクノロジーズ株式会社も代表取締役に就任しました。


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子供

松浦武四郎には子供がいたと思われますが、そのことに関する詳しい記述はありません。

ご紹介したように、現在でも子孫がいることから子供がいたことは間違いないですが、名前まで判明していないのが現状です。

ちなみに、松浦武四郎は過去に2回は結婚していると言われています。

1回目の結婚に関しては自伝にも記載されていないので、詳細は不明です。

当時は命を狙われていたので、それを考慮して隠していたという説が有力視されています。

そして、2回目に結婚した女性は「とう」という方です。


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リセ

リセというのはドラマ「永遠のニシパ 北海道と名付けた男 松浦武四郎」という作品に登場したアイヌ民族の女性です。

このドラマは北海道150年記念ドラマとして放送されて、松浦武四郎の蝦夷地調査を描いています。

そして、リセという女性ですが、ドラマ上だけの存在で、実際にいたわけではありません。

架空の人物ですが、ドラマではリセのラブロマンスが描かれるなどキーパーソンになっています。

ちなみに、リセは深田恭子が演じているのでとてもかわいいですよ。


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記念館

松浦武四郎の記念館は以下の場所にあります。

記念館

  • 名称…松浦武四郎記念館
  • 所在地… 〒515-2109 三重県松阪市小野江町383
  • 電話番号…0598-56-6847
  • 休館日…月曜日、祝日の翌日
  • 入館料… 一般310円、6歳以上18歳以下200円

記念館には松浦家から松阪市(旧三雲町)に寄贈された武四郎の貴重な資料を数多く収蔵されています。

平成20年(2008年)には、松浦家から寄贈された資料のうち、1505点が国の重要文化財に指定されました。

松浦武四郎に判明しているすべてのことを知れる場所と言っても過言ではありません。

松浦武四郎について知りたいことが網羅されているといっていいので、ぜひ記念館を訪れてみたいものですね。


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松浦武四郎についてご紹介してきました。

日本全国を旅し、数々の資料を残し、自身の出身地でない北海道に人生の多くをささげた生涯はとても素晴らしかったのではないでしょうか。

数々の書籍を残したことも、偉人と呼ぶにふさわしいのだと思います。