シャクシャインと言うとアイヌ民族の指導者ということで知られていますよね。
ただ、人物像や戦いについて詳しく理解している方は少ないのではないでしょうか?
わたし自身、名前は聞いたことあるけど、いつどのように活躍したのか知りませんでした。
そこで、この記事では、シャクシャインの戦いや歴史をわかりやすくご紹介します。
記事の後半は死因やシャクシャインの像についてもご紹介していますので、ぜひ最後までご覧になってくださいね。
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シャクシャインとは
まずは、アイヌの大闘争時代を生きたシャクシャインの年表からご覧ください。
年 | 出来事 |
1606年 | 生誕 |
1643年 | 西部首長の蜂起 |
1648年 | 東部蝦夷間の抗争 |
1653年 | 東部メナシの蝦夷蜂起 |
1655年 | シャクシャインとオニビシの和解 |
1662年 | 東部の攘夷騒乱 |
1665年 | 東部の攘夷和解 |
1669年 | シャクシャインの戦い |
1669年 | 死去 |
1970年 | シャクシャイン像建立 |
死去した年に戦いをおこしたことがわかりますね。
また、大闘争時代というだけあって、蜂起や戦いが繰り返し起きています。
そして、死去した約300年後に像が建立されています。
次に、以下の点にのポイントを絞ってご紹介します。
- 17世紀中ごろに活躍したアイヌ民族の指導者
- 北海道の東側に住むメナシクル側のリーダー
シャクシャインは江戸時代中期に実在したアイヌ民族の指導者です。
アイヌ民族とは、主に北海道に住んでいた民族で、現在は少数民族とされています。
そして、シャクシャインは北海道の東側に住むアイヌ民族のリーダーでした。
当時の北海道は大きく東西に分けられていて、東に住んでいる民族はメナシクル、西に住んでいる民族がシュムクルです。
この二つの民族はシベチャリ川の猟銃権をめぐって、争いが絶えませんでした。
この戦いが次に紹介するシャクシャインの戦いへと発展していきます。
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シャクシャインの戦いをわかりやすく解説
シャクシャインの戦いを以下のポイントで解説していきます。
- 戦いの原因
- 戦いの結果
- シャクシャインの死因
戦いの原因
それでは、シャクシャインの戦いが起きた流れをご紹介しますね。知っておきたいポイントは以下の3点です。
- アイヌ民族同士の争い
- 争いに仲裁に入った松前藩
- アイヌ民族の誤解で戦いが勃発
先ほどご紹介したように、北海道は東西に分かれていて、それぞれの民族が領地をめぐって争っていました。
この争いを仲裁したのが松前藩です。
松前藩とは現在の北海道松前郡松前町に居所を置いた藩の一つで、藩主は江戸時代を通して松前氏でした。
松前藩が仲裁したのはアイヌ民族同士が争っていると、特産物の売買がスムーズでなくなると判断したからです。
松前藩の活躍によって一時的に争いは収まりましたが、シャクシャインは西側のことを許せず、西側のリーダーを暗殺します。
その事件によって西側は、復讐するために松前藩へ武器を借りに行きましたが、拒否されました。
さらに、武器を借りに行ったサブリーダーのウタフが急死します。
これを毒殺されたと勘違いしたアイヌ民族は、東西力を合わせてシャクシャインをリーダーとして組織を立ち上げました。
その後戦争の準備を進めて、1669年にシャクシャインの戦いが始まります。
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戦いの結果
シャクシャインの戦いの結果で起きた出来事は主に以下の4つです。
- 和睦交渉
- シャクシャインの死亡
- 七ヵ条の起請文の締結
- 場所請負制の開始
戦争が開始した当初は調子が良く、シャクシャインの統率力の高さがうかがえていました。
しかし、松前藩が銃を使っていたのに対し、アイヌ民族は弓矢だったので、徐々に勢いが失われていきました。
さらには松前藩と関係の深かったアイヌ民族を味方につけるなどして、戦況は徐々に傾いていきます。
その結果、アイヌ民族の団結力も薄れて、戦争は松前藩との和睦交渉という結末を迎えました。
1669年11月、ピポクという場所で和睦交渉を終えて終了かと思いきや、これは松前藩の罠です。
しばらくして、松前藩は油断していたシャクシャインを打ち取りました。
その後、アイヌ民族は復讐を考えますが、リーダーがいないため行動に移せません。
そして、松前藩はアイヌと「七ヵ条の起請文」を締結させて絶対服従を従わせました。
ますます不利な状況に立たされたアイヌです。
また、1700年前半には松前藩が商場知行制から場所請負制へと変えました。
商場知行制は、松前藩が交易で得た利益をもとに生計を立てる仕組みでしたが、場所請負制の場合は家臣たちが直接アイヌと交易をしません。
その結果、アイヌ民族はさらに追いやられて、厳しい労働を課されたり、不公平な交易を繰り返されたりしました。
こうしてアイヌたちの扱いは劣悪なものになったのです。
その後も権力を取り戻すこともなく徐々に衰退していって、現在では少数民族になってしまいました。
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シャクシャイン死因(毒殺?)
シャクシャインが死んだ理由は明らかにされていませんが、お酒の席で殺されたという線が濃厚です。
和睦条約を結んだ後に、松前藩の一部とシャクシャインは宴を開きました。
お酒を大量に飲ませて、その隙を見て松前藩が殺したと言われています。
これが本当だとしたら何ともやるせない終わり方です。
以上が、シャクシャインの戦いを説明したものになります。
最初は同じ民族同士で争っていたのは悲しいことですが、仲間の死をきっかけに協力関係を結んだのは良かったですね。
アイヌ民族は仲間意識が高いことを思い知らされます。
そして、昔まではばらばらだったアイヌ民族をまとめあげたシャクシャインも見事です。
圧倒的な統率力があったことは、言うまでもなく伝わるでしょう。
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シャクシャイン像
シャクシャインは戦争で勇敢な姿を見せたため、現代でもその雄姿が銅像として残っています。
銅像は「北海道日高郡新ひだか町静内真歌7」に建てられています。
銅像の形はシャクシャインが右手に剣を持っていて、それを天に向けて突き上げているものです。
当時の勇敢さが伝わるようなかっこいいポーズになっています。
北海道に旅行に行く際には、ナマのシャクシャイン像を見てみるのも良いでしょう。
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シャクシャインの年表や戦いを中心にご紹介してきました。
闘争に明け暮れて、最後は毒殺されたかもしれないというと、とても悲しくなってしまいます。
ただ、そのような歴史の上に今の北海道があるのですから、アイヌ民族のことをもっと知りたくなりました。
シャクシャインの戦い同様に有名なコシャマインの戦いを詳しく解説している記事もあります。
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